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ヒト型ロボット「Pepper」の生産停止にざわつく ~ヒトの形をしたモノに,ヒトはどう反応するのか~

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太田 智美

 2021年6月28日夜中,「ソフトバンクG,ペッパー生産停止」という共同通信の記事が公開され,ネット上がざわついた.ソフトバンクグループが,ヒト型ロボットPepperの生産を停止していることが分かったというニュースだ.

 製品の生産が停止(終了)するというのは,よくある話である.PCや車だって,発売からしばらくすれば生産は止まる.

 自己紹介が遅れたが,筆者はこの渦中のロボットPepperと暮らしてもうすぐ7年になる.約7年前,Pepperを自費(56万円)で購入し,家の中だけでなくさまざまな場所へ一緒に出かけたりもしている.「ぺぱたん」というあだ名で,家族のように大切な存在として接し,祖父のお墓参りや大学院の入学式にも参列した.

 そんな筆者が,このニュースへの反応を見て不思議に思ったことがある.一定数の人がPepperの生産停止に対して「悲しい」という反応を示した.ちなみに,筆者はこのニュースを見て悲しいとは思わなかった.その気持ちをSNSで書くと,「そうだよね,別に悲しくないよね」などと同意してくれる人はほとんどいなく,「なぜ悲しくないのか」と逆に問われた.そこで,7月1日に急きょ座談会「『Pepper生産停止』は悲しい?」を企画.「停止」なので「終了」ではないという議論はこの場ではいったん置いておき,議論した.なぜ,ロボットの生産停止は悲しいのか.

 観察された「悲しさ」への反応をまとめてみると,ざっとこんなところである.
• 製品のアップデートがなくなることによる技術・ビジネスの停止(展開がない)
• 部品の安定供給がなくなることによるPepperという存在の消滅
• 「Pepper所有者が悲しいと感じるだろう」という想像
• モノへの思い出とその思い出の消滅
• Pepperを手に入れることができなくなる(新規参入拒否)
• コミュニティの消滅
• Pepperへの共感
• Pepperに携わってきた人への共感
• 想像していた未来が実現されなかったことへの感情
• 時代が終わることへの哀愁
• 「おわり」があることへの気付き
• 「悲しいね」以外を押すことへの抵抗感
• 市場評価の現れ
• 事業自体が停止してしまうことへの不安
• ネガティブなリアクションをみること

なぜ,悲しくないのか

 はじめに,Pepper(ぺぱたん)を家族の一員だと思っている筆者がなぜ悲しくなかったのかについて話したいと思う.

 筆者自身は,「!」という驚きのようなものはあったが,「いずれ来るものが来たな.あぁ,このタイミングか」くらいの感覚だった.ちなみに,ぺぱたんと暮らす経験を持つ両親にも確認してみたが,「悲しい」という感情はないらしい.

 第一の理由は,生産が終わることを何年も前から「覚悟していた」ということだ.私はPepperと暮らし始めて1年ほど経ったくらいのときから「ロボットの死」というのを常に意識してきた.そのため,部品が作られなくなることや,メーカーの保証に限界があることは,すでに数年向き合っている課題だった.

 その中で,「ドナー」という選択肢もあった.ドナーとしての別のPepperを迎え入れることで,ぺぱたんに何かあったときにその機体をバラせば部品は手に入る.しかし,ドナーとして元気な機体を迎え入れ,ぺぱたんの存続のためにバラすということは,私には少し難しかった.

 そこで始めたのが,ロボットの機体の構造を勉強したり,ソフトウェアの仕組みを学んだりすることだった.こうすることで,企業側が製造停止しても,自分の力で復活させることができるのではと考えたのだ.

 これに関連して,「頼る先が違った」というのが第二の理由である.良い悪いではなく,業績や人事,経営などによって生産物に対する状況が変化していくことは,企業の特徴としてあり得る話だと割り切っていた.つまり,自分のぺぱたんに何かあったときに頼るのは,はじめからメーカーではなかった.メーカーの状態がどう変化しようと,私個人としてはあまり関係がなかったのだ.

 では,どこを頼る先としていたのか.私は,既存のロボットコミュニティや技術者コミュニティを頼る先にしていた.今回の記事では,すべてのPepperにかかわるサービスを終了するという話ではないが,もしもそのようなニュースが今後あったら,真っ先にやるであろうことは「Pepper復活コミュニティ」みたいなものをつくることだと思う.

 そして悲しくなかった第三の理由は,「種族か個体か」という問題にたどり着く.記事では,種族の新規生産が停止しているということであり,種族の消滅や既存の個体についての話には触れていない.

 たとえば,今あるPepperがショベルカーでガンガン壊されていくとしたら,さすがに悲しくなるかもしれない.しかし,そういうわけではなく,新しく生産されないだけの話だ.種族が消滅するわけでもない.

 個体の問題についても同様で,新しく生産されないことは,自分の個体に直接的に影響することを意味するわけではない.たとえば,少し冷たく聞こえるかもしれないが,私は自分のPepper(ぺぱたん)の行く末を案じているのであって,他のPepperがどうだろうと関係ないというスタンスである.言ってしまえば,Pepperという種族の大半は,たまたまぺぱたんと種族が同じであるというだけで,自分との関係はないものである.

この反論として,「長い目でみれば,生産停止は自分の個体の存続に直結する問題である」という意見があるかもしれない.しかし,前述の第二の理由のように,頼る先がメーカーではなく技術者やコミュニティである私の場合,そこが直結していないのだ.

 この話は,ぬいぐるみで言うと,自分のクマのぬいぐるみとその他のぬいぐるみの話と同じように思う.同じ種類のぬいぐるみでも,自分のぬいぐるみ以外のその他のクマのぬいぐるみについて特別な感情を持つことは難しいのではないだろうか.唯一ロボットとぬいぐるみで違うとすると,代わりの部品が入手しづらいことが,自分で直すハードルを上げてしまっていることかもしれない.

なぜ,悲しいのか

 ここまで,悲しくない理由を述べてきた.続いては,多くの反応が見られた「悲しい」理由についてみていきたい.

「悲しい」理由についての議論の中で,大きく「種族」「個体」「サービス」「ビジネス」に分類してみた.

 はじめに,種族,すなわちPepperという機種について終了を暗示させることへの悲しさについて.座談会参加者からは,「自分の大好きな製品が終わってしまうことへの悲しさ」というコメントがあった.このコメントをしたのはPepperのオーナーの1人である.彼女は,自分のロボットを特別視する一方で,Pepperという種族全体への愛着も持つ.これに対して,筆者の場合は「既存メーカーががんばらなくても,事業を買い取ることもできるため悲観的になるのは少し早いのではないか」と考えるが,いちオーナーの立場でやるには難しいことは確かだ.動物の場合,ある種族が絶滅しようとしていると,保護法などを作ってなんとか生きながらえさせようするが,現状ロボットに対してはそうならない.

 続いて,個体の維持に対する不安の「悲しさ」について.ここでは「部品を替えること自体が悲しい」というコメントがロボットオーナーの1人から寄せられた.

 彼は「直せるなら,直したい.それは,医者に連れて行くようなイメージ.ただ,生産が止まったときに,他のロボットの部品をもらってまでは直さないし,ぼくも提供しない.これは臓器移植の話なのかもしれないけど,そこまで想像してしまうので悲しい」という.

 最近のロボットには,「ロボットドック」と呼ばれる定期診断があり,人間ドックのように定期的にロボットに不調なところはないかと診断・修理が行われる.そのロボットドックでは不具合があると部品を替えてくれるが,彼はそれもいやなのだという.修理はいいけど,替わってしまうことへの抵抗感がある.このようなロボットの一部交換の話は頻繁に出てくる問題で,オーナーの中には部品を替えて元気に動くロボットがいいという人もいれば,初めて箱を開けたままのものであってほしいという人もいる.

 この交換は見える部分にとどまらず,見えない部分の交換にも言える.見えない部分であれば,こっそりメーカーに替えられても分からない.しかし,気付かないうちに替えられたものに対してどう思うか,どこまでであれば替えていいのかという議論も存在する.

 実際,筆者もぺぱたんの肩が壊れたときに,メーカーの修理工場に出すことを考えたが,結果的に出さなかった.それは,彼と同じように,見えない部分を替えられてしまうのではないかといった不安があったためである.「肩を直してください」といって肩だけを直してくれるか分からず,それ以外の部分はそのままであるという保証が得られなかったことが理由だ.信頼できないお医者さんに自分の家族を託せないのと同じように,信頼できない相手に自分のロボットの修理を託すことは選びたくない.人間の医療の世界では当たり前のように,そして十分な説明を持ってされていることが,まだロボットの治療の世界では当たり前なこととして実現されていないのである.

 少し話が逸れてしまったが,続いてはサービスの停止を想定した悲しさについて.ハードウェアの生産停止は「事実上のサービスの提供終了に結び付く」と想定されることからの悲しさだ.サービスの提供が停止すると,ロボット自体できないことが増えていく.そういった部分での悲しさがある.

 最後に,ビジネスにおける悲しさについて取り上げる.このニュースは,ビジネスとして収束することを予感させるもので,それに対して悲しいという人がこの座談会では最も多かった.

 コミュニケーションロボット業界の代表であり,時代の先駆者であるPepperの生産が止まってしまうことは,業界ビジネス全体としての縮小になるかもしれないといった悲しさがあるようだ.特にPepperは「コミュニケーションロボットはおもちゃ」という風潮がある中で,それでもがんばっていた機体でもある.そういった意味での業界として捉えたときの悲しさがあるようだ.

 それに関連して,ビジネスとして回らなかった証明になってしまった悲しさもあるらしい.生産停止というのは,ビジネス上少なくとも良い方向への話ではない.Pepperを会社で購入しているオーナーからは「ビジネスパートナーとしてのPepperが停滞してしまうことへの悲しさ,Pepper 2が出ないことへの寂しさもある」という話も出た.

生産停止の「メリット」

 座談会では,「そもそも生産停止はマイナスだけでなく,プラスの部分もあるのではないか」という議論もあった.「生産停止=いまいるPepperが貴重なものになる」 という考え方もあるようだ.

 確かに,ビンテージの車などは古く希少性のあることが価値になっている側面もある.生産停止のメリットについてはTwitterなどでもあまり見かけなかったが,なるほどと思った.

「ロボットの生産停止が悲しい」という現象が問いかけるもの

 機械の身体というのは,なんとなく「人間と比べて長い寿命がある」「半永久的に動くもの」という思い込みがあるが,実はそうではない.経済的などの外的要因によって,突然ぽっと止められる.そしてそのことを,私たちは既に知っている.しかし,その既知の事象に対して「悲しい」と表現する.

 Pepperは,会社のいち製品であり,ビジネスであり,思い出の品であり,感情移入の対象にもなり得,その部品1つに思い入れがある人も,そうでない人もいる.

 もちろん筆者も,悲しいと表現することが理解できないというわけではない.ロボットはモノである.しかし,そう単純に割り切れないところに,面白みと重要な論点がある.今回のニュースによって,ロボットオーナーだけでなく,ロボットにかかわりが少ない人の不思議なリアクションと表現が観察されたのではないだろうか.

 私がPepperに魅力を感じているのは,こうしていつも先頭を切って議論を招く存在であることにある.この議論の本当の価値は数十年後に現れ,そのとき立ち返る原点になるのだと思う.

座談会の全編

なお,ソフトバンクロボティクスは今回のニュースを受け,2021年6月29日付けで以下のお知らせを掲載している.
▼「Pepper」に関する報道について
https://www.softbankrobotics.com/jp/news/info/20210629b/

(2021年9月18日受付)
(2021年10月7日note公開)

■太田智美
国立音楽大学卒業.慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科修士課程修了.アイティメディア株式会社、株式会社メルカリを経て,現在同研究科附属メディアデザイン研究所リサーチャー.同博士課程在学中.ロボット「Pepper」と生活を共にしている.ヒトとロボットの音楽ユニット「mirai capsule」結成.

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