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FIT2021 イベント企画「ヒトゲノム・生体情報と情報処理の課題」会議報告

顔写真-金子

金子 格(東北大学)

開催の目的

 2021年8月27日のFIT2021でイベント企画「ヒトゲノム・生体情報と情報処理の課題」を開催した☆1.ゲノム情報やその生体情報の利用は急速な技術進歩に支えられ,今後急拡大が予想される.このような時期,各方面の専門家に,それぞれの専門にとどまらない学際的な議論をいただく場を設けることは, ヒトゲノム・生体情報に関する情報処理の未来を展望するために有用だろうと考えられる.そこで,本会電子化知的財産・社会基盤研究会の協力を得て,国際標準化,科学研究,犯罪予防,法制度という4つの分野の専門家にご参集いただき,多方面からの討論を行った.学際的に大変面白い,未来志向のディスカッションが行えたので,その概要を紹介する.

ゲノム情報処理と国際標準化の取り組み

 まず東北大学 金子(本稿筆者)からゲノム情報処理と標準化の状況を次のように紹介した.

 「人間のDNA全配列読み取り(全DNA配列の読み取り)コストは2000年に100億ドル規模であったが,ムーアの法則をはるかに超えるスピードで高速化,低コスト化が進み,現在では個人が数万円程度で行える(図-1).今後爆発的に利用が広がり,デジカメで顔写真を撮るのと同じ手軽さで利用できる時代はすぐそこに来ている.そのような時代に備え,MPEG標準化グループの中でもゲノム情報符号化伝送の標準化の取り組みも行われている」

 このあと,国際標準は作成に5年程度,利用は30年程度続くこともあり,数十年先のニーズに応え得る将来の社会制度を見据えた規格作成が必要になることや,各国のプライバシー法制度などの法制度自体も発展途上であるため,標準自体は,こうした制度を幅広く調査しつつ,各国の異なる法制度や今後の社会の変化に適応できるよう,柔軟な規格を目指して開発が進められていると紹介された.

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図-1
東北大学 金子「ゲノム情報処理と国際標準化の取り組み」のスライドから
20年で1/1,000,000(フルシーケンスの読み取り費用)

ヒトゲノム研究者から見たデータ利用の実際

 東京大学 小金渕氏からは,ゲノム研究におけるゲノムデータ利用の概要が解説された.

 次に,個人情報をどこまで守れるかについて,ゲノムからどういったことが分かるかという例を紹介いただいた.

 「ゲノム情報を取得すれば大体どこの地域の出身かは分かる.多くの集団は特定の地域から大幅に移動することなく生活をしており,それらの集団間で婚姻がなされる.それを起因として生じた遺伝子流動の影響で遺伝子の特徴がグラデーションになってくるからだ.ゲノム情報を主成分分析で解析して,PC1(1番目のPrincipal Component)とPC2でプロットすると,遺伝的変異の分布と個人個人の地理的な分布がほぼ一致することが,2008年のNovembre等の論文で発表されている(図-2 ,右図).

 また,日本人にとってより身近な例として,下戸遺伝子である2型アルデヒド脱水素酵素(ALDH2(遺伝子はイタリック体で表記されるが、noteの仕様で通常書体としている.以下同様))を挙げる.たとえば,飲み会などですごい酒豪の人がいたら「もしかして九州出身?」などと推測するだろう.私がお酒に弱いタイプの遺伝子であるALDH2の日本列島内での頻度分布を調べた結果,実際のところ,九州や沖縄にはお酒に弱い(アルデヒド分解酵素が不活性化している)遺伝子型を持っている人が,他の地域に比べて少なかった.これは,私たちの感覚と遺伝子の地理的分布が一致する例と言える(図-2,左図).したがって,完全な匿名化は難しく,DNAからある程度の情報は得られてしまう」

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図-2
東京大学 小金渕「ヒトゲノム研究者から見たデータ利用の実際」のスライドから
遺伝子による個人の位置付け(左-小金渕等,右- Novembre等,による)


 このあと,ヒトゲノム研究における検体収集はインフォームドコンセントと匿名化に加え,データへのアクセス自体厳密な管理下で扱われていること,特定の人しか入れない閉ざされた場所やオフラインで分析している研究機関もあること,その一方で英国では登録によりオンラインで公開される例もあること,などが紹介された.

犯罪×ゲノム・生体情報

 東北大学 荒井氏からは,犯罪とゲノム・生体情報という表題で,主に犯罪という文脈におけるゲノム利用についてご紹介いただいた.

 「犯罪の一次予防(広報活動,環境設計により犯罪を起こさせないようにすること),二次予防(加害リスクを予見して早期介入すること),三次予防(問題の再発を防ぐこと)の考え方がある.ゲノム利用と関係が深いのは,特に二次予防である」

 このあと,加害リスクを予見して早期に介入するためには,潜在的加害者を精度良く予測するための要因を明らかにする必要があり,近年では神経犯罪学(Neurocriminology)の台頭により,犯罪における遺伝的要因の重要性が再認識され始めていると言及された.具体的な例として,ドーパミン神経系遺伝子,酵素活性遺伝子,セロトニン遺伝子などが反社会的行動に関連し得ると報告されている(図-3)ことが挙げられた.ただし,こうした考え方の注意点として,遺伝的要因が存在するだけで犯罪者になるのではなく,遺伝的要因と環境的要因が相互作用することで初めて犯罪という複雑な反社会的行動が発現する,という視点を忘れてはいけないことが指摘された.それに加えて,遺伝的要因が予測するのは衝動性や攻撃性であり,犯罪そのものの予測ではない点に留意が必要であることが示された.

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図-3
東北大学 荒井「犯罪×ゲノム・生体情報」のスライドから
21世紀における神経犯罪学(Neurocrimingology)の台頭

 後半では,日本の犯罪捜査におけるゲノム・生体情報の利用について紹介された.犯罪捜査におけるゲノム利用の問題点として,法的根拠が必ずしも明確ではない点や,警察がDNA型のデータベースを作成すること自体に法的・倫理的問題がないのかという点が提示された.

~データ保護に関する国際的な議論から~

 KDDI総合研究所 加藤氏からは,ゲノムを始めとした生体情報に関するデータ保護法制の際的な議論を解説いただいた.

 「日本では平成27年の改正における個人識別符号にDNAが含まれ,研究倫理指針においてゲノム情報における遺伝情報の定義なども示された(図-4).

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図-4
KDDI総合研究所 加藤 「~データ保護に関する国際的な議論から~」のスライドから
平成27年改正個人情報保護法


 欧州委員会からは,2021年2月,GDPR(General Data Protection Regulation; EU一般データ保護規則)の下での健康情報に関する各加盟国の調査結果である,Assessment of the EU Member States’ rules on health data in the light of GDPRが公開された.ここではCOVID-19の流行も踏まえて,国際連携の重要性が認識されている」

 また,欧州における医療データ共有の仕組みであるEHDS(European Health Data Space)も紹介され,ここではGDPRに沿った個人の基本的権利を尊重することなどが報告された.

パネルディスカッション

 このあと,須川氏,湯田氏を司会として,いくつかの論点についてディスカッションを行った.

特異例(めずらしい症状,病気など)にかかわる多型と一般的な症状にかかわる多型の有用性について
小金渕
: 高地(低酸素)への適応や,イヌイットの肉食への適応などがあり,それが疾患の原因にもなることがあるので,こうした特徴的な多型が医学的に有用な場合がある.一般的な相関が有用な場合もある.特異例が個人特定につながらないかという点については,個人特定にかかわる多型は病気の多型とは別(病気の多型だけでは個人特定は困難)なので,個人特定の多型は分離,保護できると思う.

犯罪捜査のために本人の許可なくDNAが使われるか
荒井:日本では,令状がない限り,警察がDNAサンプルを本人の断りなく強制的に取得することはできない.任意でDNAを採取し,それが違法だとして法律論争になった事例がある.
須川:米国において,DNAを登録することで家系図を作るサービスの情報を警察が犯罪捜査に使った事例がある.日本にはまだそのようなサービスがないが,そうしたサービスが将来できる場合には法整備が必要かもしれない.

DNAの大規模データベースについて
荒井:全日本人のDNAのデータベースが作られることがあり得るのか.
金子: 詳しくは知らないが,調べて目にするのはせいぜい10万人.
小金渕:企業で数万人のコホートを作る,政府がガンのゲノムデータベースを作るという話はあるが全員ということはない.
金子:フルシーケンス100円といった時代になった場合,他人に勝手にDNA分析,記録されることを阻止することが難しい.本人特定の多型を登録することで,DNA分析処理を行ったら必ず(本人特定を行い)本人に通知するという方が保護されるかもしれない.

犯罪分析について
湯田:不敬罪のような犯罪は時代により変わると思われる.それにどう対処するか.
荒井:そこまで正確には分からない.犯罪が遺伝で決まるわけではなく,遺伝的に攻撃しやすくなるというだけで,遺伝情報から犯罪がおきることは確定できない.
加藤:かつては不敬罪があったが今はない.

大規模なDNAデータベースを利用することについて
加藤:ホロコーストにおいてパンチカードシステムが利用された.大量のデータを情報処理技術で処理できたことがホロコーストの悲劇につながった,という反省が欧米においては基本的な考え方としてある.遺伝子情報をはじめとして,大規模なデータベースを用いることには慎重であるべきと考えられる.
須川:情報がデジタルデータになったときに,さまざまな問題が起こり得る.

DNAが変更不可能であることについて
加藤:ID番号は漏洩したとしても変更する手段が残されている.ゲノムは漏洩した場合に書き換えられない.その点はどう考えるか.
金子:分析が容易になると,登録を慎重にしても保護しきれない.むしろ本人に断りなく他人が利用することを制限する方が実際的と思う.
湯田:メリットよりもデメリットが多いとなると登録しないということが最適解になってしまうので,メリットを出す制度設計が必要だ.
加藤:登録と利用をわける意味合いはなんだろう? データ保護では取得・保管・提供はセットで考える.利用だけを取り出す意味というのはなにかあるのか.
金子:映画の著作権の場合,コピー保護は完全には阻止できない.その場合,コピー保護をしつつ,配布制限を併用する必要があるのでは.

 このあと,会場の一般参加者からの質疑も行われ,本イベントを終了した.

☆1 イベントの概要 https://www.ipsj.or.jp/event/fit/fit2021/FIT2021_program/data/html/event/event_A2.html

(2021年10月15日受付)
(2021年11月15日note公開)

■金子 格(正会員)
アスキーの技術開発部,大学教員を経て,2021年から東北大学データ駆動科学・ai教育研究センター技術補佐員.情報技術,オーディオ,ゲノムなど幅広い関心を持つ.ACM,IEEE,日本音響学会,惑星協会会員.

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