見出し画像

誰一人取り残さないために情報技術が果たす役割

浅川

浅川 智恵子
IBMフェロー,IBM T. J. ワトソン研究所

 私の学生時代,視覚障がい者が新聞を読み,銀行通帳を確認するためには,ボランティアに点訳を依頼したり周囲の人に読み上げてもらう必要がありました.本当に大変な時代でした.そんな経験から1985年にIBMに入社してからは情報アクセシビリティの研究開発に取り組みました.ちょうど入社したころに市場に出てきたPCを活用して点字をディジタル化し,編集や共有を可能にするシステムを実用化しました.1990年代には世界初の実用的な音声ブラウザを開発し,世界中の視覚障がい者が簡単にWebへアクセスできるようにしたことは私の誇りです.そして2021年の現在,スマートフォンを使えばいつでもどこでも最新のニュースを読むことができ,オンラインバンキングを使えば銀行口座も簡単に確認できます.こうした革命的なアクセシビリティの向上は,PC,音声合成技術,Webそして携帯端末といった情報技術が成し遂げました.

 ディジタルデータのアクセシビリティは向上しました.しかし視覚障がい者は「身の回りの実世界」にはまだまだアクセスできていません.街中を歩いているときに周囲にどんなお店があるのか,どんな人が歩いているのか,10メートル先にどんな障害物があるのか,こうした情報を知ることはできません.さらにコロナ禍において新たな課題にも直面しています.横断歩道の押しボタンやエレベータのボタンを手で触って探すことへの不安や,正しい距離を保って列に並ぶことの難しさ,困ったときに街中で周囲の人に声をかけづらくなったことなどさまざまな困難が報告されています.

 そこで,2017年に立ち上げたのがAIスーツケースプロジェクトです.スーツケース型ロボットにカメラをはじめとしたさまざまなセンサを搭載し,AIと組み合わせることで,周囲の歩行者や障害物を回避して安全に目的地に到達できるだけなく,行列を認識し,正しい距離をとって並ぶ機能なども実装しました.2019年11月には実際にショッピングモールの中で自由に移動できるバージョンが完成しました.現在テストを行っていますが,周囲の歩行者や障害物との衝突を気にすることなく自由にお店を選んでモールの中を歩くことはウィンドウショッピングに近いような新しい感覚です.コンピュータビジョンをはじめとしたAI技術を活用することでコンピュータが視覚障がい者の目として身の回りの実世界を認識してくれるようになる日が現実のものになろうとしています.

 “Leaving No One Behind.” これはSDGsの基本理念です.「だれひとり取り残さない」というのは非常に高いハードルのように感じるかもしれません.しかし,一人ひとりの技術者が多様性を持ったユーザがいることを常に心に留めて開発を進めれば,確実に前進できるはずです.私も研究者と視覚障がい者ユーザという2つの立場をうまく融合させて,情報技術が実現する共生社会の形を示していきたいと思います.

(「情報処理」2021年4月号掲載)

■ 浅川 智恵子
1985年日本IBMに入社.以来アクセシビリティの研究に従事.2009年IBMフェロー就任.2013年紫綬褒章受章.現在カーネギーメロン大学の客員教授を兼務.2021年日本科学未来館館長に就任予定.工学博士.