名大日本史2017年答案例

大問1
問1…3行
  古墳時代終末期、従来多かった前方後円墳は築造されなくなり、円墳や方墳、そして、大王は八角墳を築造した。この時期に呪術の一種として広まった仏教は、氏に繁栄をもたらすものとして豪族に信仰され、古墳に代わる権威の象徴として寺院が建立され、古墳は埋葬施設としての性格が強まった。(135字)

問2…1行
 聖武太上天皇が病死した後、その遺品が光明皇太后により正倉院に納められた。(36字)

問3…2行
 太政官の筆頭公卿である左大臣として、国政を審議する陣定を主催するとともに、天皇に上奏する文書を内覧し、裁可を求めた。(58字)

問4…2行
源頼家の時代、北条時政は頼家の後見である比企能員を排除した。源実朝の時代、北条義時は侍所の長官である和田義盛を排除した。(60字)

問5…2行
 北条氏が就任する執権・連署、北条氏をはじめとする有力御家人などが就任する評定衆による合議が行われ、将軍に代わり、執権を中心に御家人が集団で運営する体制を整えた。(80字)

大問2
問1 あ:大目付 い:老中
 論述…1行
  大岡佐渡守は大名の監視を行い、幕府の法令を伝達する大目付に就任していたから。(38字)

問2…2行
禅宗を中心とする大陸文化の影響を受けた。嘉吉の変後、幼い将軍の下、有力守護同士の権力闘争で室町幕府が動揺しており、京文化に理解のある有力守護大内氏の保護を受けた。(81字)

問3…3行
 Cは明に渡り、水墨画を学んだ。Dは長崎を通じ流入した西洋の銅版画を学んだ。Eはフランスに渡り、印象画の画風を学んだ。3者のうち、C:Eの著者は実際に現地を訪れ、直接技法を学んでいるが、Dの著者は輸入された技法を国内で学んだ。(112字)

問4…2行
 酒造制限令は米価調節を期待された。背景として、石高制の下、米納の年貢が武士の財政基盤である一方、都市での生活により、消費が増加しており、適切な米価調整が欠かせなかった。(84字)

問5…論述は1行
 ⓕ:武家諸法度
 「文武弓馬の道」という文言が記されており、武芸に励むことが重視された。(35字)

問6…1行
  徳川綱吉が生類の殺生を禁じた生類憐れみの令を出したため、鷹狩ができなくなった。(39字)

大問3
問1…2行
答案例①
 明治天皇の暗殺計画を立てた容疑で、幸徳秋水ら社会主義者が検挙され、大逆罪が適用されて死刑となった。以降、社会主義は冬の時代を迎え、社会運動は低調になった。(77字)

問2…2行
 古河市兵衛が操業する足尾銅山からの鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、流域住民に被害が出た。田中正造は鉱山の操業停止を訴えたが、政府は無視したため、田中は明治天皇に直訴した。(82字)

問3…1行
 一世一元の制が定められ、一代の天皇に一つの元号を使用することが定められた。(37字)

問4…3行
 徳富は明治を明治天皇の下、国民がともに歩み、国家に統合されていた時代と捉えた。明治末の社会を、自由平等の新天地を築こうとした人々が現れたと捉える一方で、政府によるそうした人々の弾圧を批判し、国家の統合が弱まりつつある状況を憂いている。(117字)

大問4
問1…2行
岸内閣が締結した新安保条約に反対する革新勢力が安保闘争を展開する中、岸内閣が条約批准の採決を強行すると、運動は高揚し、条約の自然成立後、岸内閣は総辞職した。(78字)

問2…3行
 太平洋側の都市部に農村部から人が流入して人口集中が生じ、核家族化が進んだため、都市郊外において、ニュータウンが建設されるなど開発が進んだ。一方、過密に伴い、交通渋滞や騒音・大気汚染などが発生し、住宅や病院の不足も目立ち、交通事故も急増した。(120字)

問3…1行
 55年体制 細川護熙内閣
 汚職事件の続発と派閥争いを背景に分裂した自民党は1993年の総選挙で過半数を失った。(39字)

問4…1行
 佐藤栄作
 アメリカの施政権下にあった沖縄は、沖縄返還協定の締結で日本に復帰した。(35字)

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