2015年慶応文学部日本史論述答案例

大問Ⅳ問10
 当初、天皇を敬っていた武士は承久の乱を契機に、皇位継承問題などで自らが優位にあることを示し、南北朝時代に実力主義の風潮が強まると、天皇を軽んじるようになった。(79字)

解法
①…史料の把握がどうしても必要になるが、本問題以前の問いがそのヒントとなる。
 史料イは承久の乱の際の北条義時・泰時父子の会話。
  史料文5行目の「君の御輿に向ひて、弓を引くことは、いかがあらん…」から、「当時の武士にとって、天皇の存在が絶対的であった」ことが読み取れる。

②…史料ロは問3から、四条天皇が亡くなった後の皇位継承問題発生の際の史料(執権北条泰時と京に赴き、幕府の意向を伝えた御家人安達義景の会話)であることが分かる。
  2行目から3行目にかけて、泰時が「順徳上皇の子供に皇位継承をしようと朝廷が言って来たら、その場合は天皇から降ろしてしまえ」と言っている。

③…史料ハは問7・8から南北朝内乱の時期の話であることが確認できる。史料は「光厳院が行幸するから道を開けろと言われた武家の(土岐)頼遠が矢を射かけている」様子が記されている。

④…設問要求に対する解答の軸は「尊崇の念が徐々に薄れている」である。もちろん、それでは字数が圧倒的に不足するので、条件①を使いつつ、補っていけばよい。また、「史料イの時期からロを経て、ハの時期にかけて」とあるから、問いの型を推移と判断し、解答の軸を3つ(A⇒B⇒C)に分けるのがよいだろう。

⑤…Aについては「当初、武士は天皇に対し、絶対服従と認識していた」でよい。それが弱まった(A⇒B)契機や背景については、史料イを利用し、承久の乱で書けばよいだろう。承久の乱後、幕府が皇位継承の決定権を持ったことは教科書本文レベルの知識である。
「当初、天皇には絶対服従すべきと認識していた武士は承久の乱を契機に、皇位継承問題などで、朝廷よりも優位にあることを示した。」(60字)

⑥…B⇒Cの変化は「天皇を軽んじるようになった」でよいだろう。その背景としては問7を踏まえるか、問8を踏まえるかで解答が異なる。前者なら、後醍醐天皇への言及があるから、「建武の新政の崩壊により」となる。後者なら「実力主義の風潮が強まった」となる。
 ⇒ ただし、受験生が前者で答案を書くのは難しいので、後者で解答を作ればよいだろう。また、「史料に即して書く」という本学部の入試問題の意図に即しても後者で解答を作成することが好ましい。


大問Ⅴ問6
 田沼意次が失脚し、松平定信が老中に就任して、改革を進め、文武を奨励したことなどにより、奢侈や賄賂の横行、武芸・学問の軽視など、退廃的な世相の風潮が改められた。(79字)

解法
①…6行目の「白河の太守老職」から、松平定信が想起できることが、この大問を解く際の前提となる。「白河の太守老職=松平定信」の前提は問1の設問文で、江戸時代中期・後期と史料の時間軸が把握できていることである。

②…①を前提に問3が出来れば、政局の変化(設問要求①)は「田沼意次⇒松平定信の幕閣首脳の交替」であることが分かる。よって、「田沼意次が失脚し、松平定信が老中に就任し、改革を進めた」(27字)となる。

③…設問要求②については「著者の認識」を史料から確認する必要がある。4行目に「やつがれ、若かりし時より、風化次第に乱れ下り、此末いかになる世となりなん」という著者の認識が示されており、終わりから4行目以降、和歌に詠まれているような「悪風」が「忽ちにあらたまり」とある。ここが「世相が改まった」という設問要求に合致することが分かる。

④…あとは和歌2首の内容を丹念に拾うだけである。
 1首目は「世に合うのは奢侈や賄賂」、2首目は「世に合わないのは武芸や学問」とある。よって、寛政の改革の「文武奨励」が想起できる。史料文の内容をくみ取ったことを解答に組み込みつつ、改革の「文武奨励」に言及したい。
よって、「改革が文武を奨励したことによって、奢侈や賄賂の横行、武芸・学問の軽視など、退廃的な世相の風潮が改められた」(52字)

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