2014年慶応文学部日本史論述答案例

大問Ⅳ問9
 在京し、室町幕府の政治に関与していた大名たちは、公家などの文化人と日常的に交流していたため、応仁の乱を契機に任国に下った後も、中央の文化に憧れを持っていたから。(80字)

 駿台・河合塾ともに設問要求・史料文を踏まえた解答作成ではない。まず、「公家が大名の保護を求めて下向した」というのは、大名たちが文化を摂取した「背景」ではあっても、「理由」ではない。また、「分国統治の権威づけ」という記述は史料文から読み取れることではない。ここでの焦点は「守護在京制に伴い、大名が文化の担い手であった」という点である。
 駿台が発表した「入試分析シート」で本問題について「出題者の意図が伝わりにくい」とのコメントがされているが、室町幕府の全国支配(室町幕府・守護体制)・守護在京制・室町期荘園制・大名たちと文化人との交流などは、近年の室町期研究の中心でもあり、近年の入試問題において頻出(東大では2014年第2問、2011年第2問で出題されており、特に前者は本問題の類題)である。少なくとも、近年の研究動向を踏まえる限り、本問題において、出題者の意図が伝わりにくいということはなく、「最新の研究を踏まえている」・「史料文を丁寧に読み取り、教科書レベルの知識と照らし合わせて、解答を作成する」という2点において、むしろ、良問である。特に「史料文を丁寧に読み取り、教科書レベルの知識と照らし合わせて、解答を作成する」点については史料分析力・歴史的思考力を問うという点で、史学科のある文学部にふさわしい論述問題であることを付言しておく。

解法
①…まずは条件①に沿って、史料文の読み取りを行う。
史料イ…守護大名は京都に在京し、幕政に関与していた。
 ⇒ 問3で「足利義持」と答えられれば、史料文の場が京都であることが分かる。
史料ロ…在京する守護大名たちは文化人との交流があった。
 ⇒ 問5の連歌から、この月次会が文化人と大名との交流であることは想像がつく。
史料ハ…応仁の乱をきっかけに大名たちは在京を止め、任国に下った。
 ⇒ 史料文中の「1477年」と問4の「山名持豊」、問6の設問文などから、応仁の乱に関する言及であることが分かる。

②…以上の資料の読み取りから分かることは、「大名が文化の担い手であった」という事実である。そこから推測できることは「大名たちが京都を離れた後も、京(中央)の文化を希求していた」である。山川『詳説日本史』P146の「地方の武士たちも中央の文化への強い憧れ」とあるから、この中に大名たちも含まれると判断して、記述すればよい。


大問Ⅴ問7
 前島密の郵便制度創始に関する話に誤りがあること、大蔵省の駅逓正だった濱口儀兵衛の下で前島が働いていたという山本氏の証言、濱口を駅逓正とする碑文の存在を根拠に、記事では濱口儀兵衛の重要性を説いている。(99字)

解法
①…純粋な史料文の読み取り問題であるから、慎重に史料文の内容を検討することが求められる。

史料文①
「前島密氏は我国郵便制度の創始者として,已にa男爵を授けられ,新たに華族に列したるが,此制度を初めて我国に移入したるは,果して前島新男爵のみの功か,少くとも氏をして此大業を遂げしめたるもの他になかりしか,之に対して世に疑を抱くものあり。疑ふものは先づ前島氏の直話に付きて其年月の正確ならざることを言へり。曰く,前島氏は明治三年駅逓権正となり,翌四年八月駅逓頭となれりといへり。然れども我国に於て初めて駅逓正なるものゝ置かれしは,実に明治四年b廃藩置県の発表となりたる後のことなり。前島氏が其以前に駅逓権正となりたりといふは記憶違ひなる可し」

→「疑うものは前島氏の話について、その年月が正確ではないこと」を根拠としている。その一例として、「日本に駅逓正が置かれたのは、明治4年であり、前島氏が明治3年と主張している事実と異なる」という点がある。

史料文②
「且つ最初前島氏が駅逓権正たりしとすれば,其上に駅逓正なるものありしは明かなり。其駅逓正は紀州の人故濱口儀兵衛翁(号梧陵)なり。当時翁の交遊したる人物は勝安芳伯,福澤諭吉氏を始めとして,相尋で世を去り,能く翁の履歴を知るもの少きも,同じく和歌山県人にして当時翁と相携へ,大蔵省に出仕したる山本広氏のみは今尚健在なりといふ。」

→「また、「前島氏は最初、駅逓権正であり、その上に駅駅正がいたことになる。その人物は紀州出身の濱口儀兵衛翁である」。濱口が交遊した人物として、勝海舟や福沢諭吉がいるが、既に世を去っており、濱口を知るものが少なくなっている」

史料文③
「記者仍りて氏に就て翁の履歴を聞くに,氏は曰く,明治四年大蔵省に駅逓正なる職の初めて置かれし時に,最初に其の職に就きたるは濱口翁なり。余は翁と始終親しく交際したるが,翁は就任の当時飛脚屋の親方となれりとて人に笑はれたること度々あり。前島密氏が何時洋行し何時帰られたるかは余の知る所にあらざれども,明治五年頃濱口氏が駅逓正たりし時に,其下に前島氏が権正として働かれたるを記憶す。勝伯の選みたる梧陵翁の碑文にも「明治四年和歌山藩権大参事歴任駅逓正及駅逓頭」とあり。去れば郵便創始の名誉は前島氏の専有に帰す可からず。......今回の祝典に翁の名の称せられざりしは遺憾なりといふべし。」

→「濱口と交友のあった人物は最初に駅逓正だったのは、濱口氏であり、その下で前島氏が働いていたと表現する。また、勝海舟が濱口のために建てた碑文にも、明治4年に濱口が駅逓正であったとする記載がある。」

②…まず、史料文から、条件①が濱口儀兵衛であることは明確である。よって、設問要求は「記事が濱口儀兵衛を重要視する根拠を要約せよ」という形になる。

③…以下の史料文の3行目「疑ふものは先づ…」とある。「まず」とあるわけであるから、ここから、いくつかの根拠が上がると考え、順に追っていけばよい。
「前島氏の直話に付きて、その年月の正確ならざることを言えり」とあり、その具体例が続く。要約であるから、「前島氏の話に誤りがあること」に言及すればよい。

史料文冒頭
「前島密氏は我国郵便制度の創始者として,已にa男爵を授けられ,新たに華族に列したるが,此制度を初めて我国に移入したるは,果して前島新男爵のみの功か,少くとも氏をして此大業を遂げしめたるもの他になかりしか,之に対して世に疑を抱くものあり。疑ふものは先づ前島氏の直話に付きて其年月の正確ならざることを言へり」

④…記事が濱口を重要視していることの根拠をあげなくてはいけない。それは「濱口が駅逓正であり、その下で前島が駅逓権正として働いていた」という山本広氏の証言である。それは史料文の「大蔵省に出仕したる山本広氏…」以下のくだりから確認できる。

⑤…史料では山本氏の証言を紹介した後、濱口の碑文に「駅逓正及駅逓頭」とあることを根拠として、その証言の正しさを補強している。よって、この碑文にも言及すべきである。

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