2006年一橋大日本史第1問答案例

答案例①
1応永の外寇。対馬の宗氏が代替わりした後、倭寇の行動が活発化する中で、被害に苦しむ朝鮮が対馬を倭寇の根拠地と考えた。2方広寺。豊臣秀吉が発令した刀狩令の中で、没収した武器を方広寺に造立中の大仏に利用するとした。江戸幕府は豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘銘を問題視し、これを口実に豊臣方を攻撃して滅ぼした。315世紀、日朝間には国交があり、室町幕府の交易船が往来した他、守護や国人など多様な人々が対馬の宗氏の統制下で交易を行った。16世紀初頭に三浦在住の日本人が暴動を起こした三浦の乱の発生後、通交は縮小され、宗氏が通交を独占した。16世紀末に、豊臣政権が明征服を目的として、2度の朝鮮出兵を行った影響で、日朝は断交した。17世紀に入り、江戸幕府は宗氏を仲介にして朝鮮との国交を回復し、18世紀を通じて、通信使が朝鮮から日本に派遣された。一方、宗氏は17世紀初頭、朝鮮と己酉約条を締結して、釜山の倭館で交易を独占した。(400字)


答案例②
1応永の外寇。対馬の宗氏の当主が若年のため倭寇に対する統制力が弱まり、倭寇の行動が活発化する中で、被害に苦しむ朝鮮が対馬を倭寇の根拠地と考えた。2方広寺。豊臣秀吉は刀狩の際、没収した武器を方広寺に造立中の大仏に利用するとした。江戸幕府は豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘銘を口実に、豊臣方を攻撃して滅ぼした。315世紀、日朝間には国交があり、室町幕府の交易船が往来した他、守護や国人など多様な人々が対馬の宗氏の統制下で交易を行った。16世紀初頭に三浦在住の日本人が暴動を起こした三浦の乱の発生後、通交は縮小され、宗氏が通交を独占した。16世紀末に、豊臣政権が明征服を目的として、2度の朝鮮出兵を行った影響で、日朝は断交した。17世紀に入り、江戸幕府は宗氏を仲介にして朝鮮との国交を回復し、18世紀を通じて、通信使が朝鮮から日本に派遣された。一方、宗氏は17世紀初頭、朝鮮と己酉約条を締結し、釜山の倭館で交易を独占した。(400字)


答案例③…3で新井白石の復号問題まで記述
1応永の外寇。対馬の宗氏の代替わり後、倭寇の行動が活発化する中、被害に苦しむ朝鮮が対馬を倭寇の根拠地と考えた。2方広寺。豊臣秀吉は刀狩の際、没収した武器を方広寺に造立中の大仏に利用するとした。江戸幕府は豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘銘を口実に、豊臣方を攻撃し滅ぼした。315世紀、日朝間には国交があり、室町幕府の交易船が往来した他、多様な人々が対馬の宗氏の統制下で交易を行った。16世紀初頭に三浦在住の日本人が三浦の乱を起こした後、通交は縮小され、宗氏が通交を独占した。16世紀末、豊臣政権が明征服を目的として朝鮮出兵を行った影響で、日朝は断交した。17世紀に入り、江戸幕府は宗氏を仲介にして朝鮮との国交を回復し、通信使が来日した。一方、宗氏は朝鮮と己酉約条を締結し、釜山の倭館での交易を独占した。18世紀に入り、将軍の権威向上をはかる新井白石は、通信使の国書における将軍表記を日本国大君から日本国王に改めた。(399字)

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