「お金」人間の底辺の戯言

やあ。みんなは、お金好き?お金っていいよね。いっぱい欲しいよね。だっていっぱいあって困らないもんね。お金で買えない物なんてこの世に無いしね。おおっと、心は買えないなんて野暮なことは言わないでおくれよ。とにかくお金は便利って話。最近はクレジットとか携帯があるからお金の現物を持たなくなって更に便利になったよね。

本当だろうか。

2020年を生きる今の人たちは本当に忙しくて生きる以外にすることが多いくて忙しい。さらに仕事をしても直接的な報酬じゃなく人類が作り出したみんな大好きお金なるもので支払われる。これがまたややこしい。
本来生きるというのは、お腹が空いたから動物を狩る、喉が乾いたから水を汲む、とかなんとかのようなもので、こういうような動物的活動をヒトもしていたわけだがこれがすごくダイレクトで喜びもダイレクトであったと私は感じる。それがダイレクトな動物的活動であるという意味。それなのに偶に物を食べたく無いやつとかSEXが嫌いなやつとかがおるけど何かカッコつけてるのか本当にそういう人間なのかは知らんが、そう言う人間は全く信用できない。動物の生産性から逸脱したニュー人類。はたまた破滅人間。もしくは退化。私と生きいてるポイントが違うので、どういう事ですか?である。軽視軽視軽視。
話が逸れた。すまん。戻す。やうするに生きるためには食べないとダメでつまり食べることが生きる喜びで。だからこそ動物を狩って得たその報酬はダイレクトな喜びなのである。それがそのまま自分の血となり肉となる。そしてなんせそういうのをやった分だけもらえる。何もしないとおまんまが食えない。わかりやすい。シンプルは美しいのだ。

しかしヒトは知恵があるもんで怠慢で楽をできるだけしようとする。得意不得意等で能力差が出てきて水汲みは上手いが狩りが苦手な奴が、ちょいと君、すまなんだがお水多めにあげるからお肉頂戴よ。とか何とかを水汲みが苦手やけど狩りが得意なお隣さんに声を掛けると、お、そうなんや、ワテらえらいこないだ仰山取れたんでええでっしゃろ。それはそれはおおきに。なんて会話をして物々交換なんてことをしていたわけで、その結果そういうのを続けていくとそれがどんどん各々得意なこととかを仕事にしたり生まれた家がしていた仕事なんかをしていくことになったんであろうと推測する。そしたらそこに一つのやりにくさが生まれてくる。なあなあお水あげるからこないだみたいにお肉頂戴や。えー。水?んー、水ねー。めっちゃ新鮮な水よ?んー、ちょと間に合ってるわー。えちょー、ちょマジ頼むわ。家で嫁も子供も腹空かして待ってんねん。そないなこと言われてもなー、水はほんま間に合ってんねんな。それこそ腐るほどあんねん。腐るほどてぇーそないな肉みたいな表現せんでも。いやあぁ、実は肉も腐るほどあるねんなぁ。え、そんな、いや、なんや、それ、そら、ほな、ほんなら、そんなら肉と替えていや!いやホンマ水はええわー。いや、ちょ、えぇー、引くわぁー。そいだら果物やったらええで。アホいえ!肉無いのに果物なんかあるかいな!うわー果物もないんかいな。ほな普段あんさん何してんの?水ばっか汲んでんの?今それ関係ないやろ!関係ないって自分がうまいこと狩でけへんのがあかんのちゃうの?それは言わんといていな。堪忍堪忍。兎に角、家に嫁と子供腹空かして待ってるいうたやん。ととちゃんお肉食べたいよーいうて泣きついてきよんねん。そらー、あれやな、ごっつう可愛いな。そないな感情あるなら肉とお水交換してけつかってくれよー。んー、せやけど水は無理やわ。他当たってちょうらい。なんじゃいそりゃ!あんさん人情ちゅうもんがないんか!何とでもいうておくんなまし。ぐむむ。なんつうことがあったかなかったかはさておいて、兎に角要るもの要らない物の先物取引的な需要と供給のズレが起きてしまうわけで。そん時におそらく生まれたのがお金という共通認識された概念。お肉はこの綺麗な石5個で水は2個な。なんて相場ができてそれに伴って石といろいろを交換していった。それはもちろん最初は便利じゃんってなったのであろう。だからこうして今現在も世界中にお金という概念にとって変わることもなくその方式が使われてるわけであるというのは簡単に類推できるよね。というか今更お金の成り立ちなんか聞かされても私のnoteの崇高なフォロワー達は、は?きっしょなめんな。という面持ちなことは重々理解している。実は私のnoteは一定値以上の脳指数を持ち合わせている人間しかフォローできないシステムになっており、その旨をnoteメンテナス担当と密約しているのだ。メンサとかフリーメンソンとかアメリカンクラブみたいな選ばれしメンバーのみの会員制組織に入れたみたいなもんやねとりあえずおめでとう。兎に角今更な説明を聞いてもらったのは今現在のお金という概念に対する認識とお金ができた時のお金という概念に対する認識に、ズレができているということである。わかる?

私が産まれたときにはもうお金という概念は存在して二千年とかそれ以上経っていてもうお金という概念が生活に人間にこびりついて離れない頑固汚れになっていた。ふとそこにあるお金いやもうそこにはあったお金である。そういえば産まれて物心もつかないうちにそろばんとペンとお金から赤ん坊が何を選ぶかで人生を決めるという占いに強制的に参加させられていたらしい。非道なる家族である。人の人生をなんだと思っているのだ。物心つかんうちに決めるなんて家族とはいえ言語道断。ちなみにそろばんは商売人ペンは研究家お金は社長だったかな?直である。何を選んだかは覚えていない。
まあ何が言いたいかというと勉強によって、お金という概念が生まれたときの成り立ちからなるお金の概念を知る前に、生活のひとつとして既にお金が存在していたために周りの人間や社会からお金の扱いを学びお金そのものを貴重がる社会というものからお金が大事であるという概念を知らぬ間に植え付けられて育ってきたということである。飛び級である。まあぶっちゃけそんなん知らんでも生活は出来るしそれを知ったから何?という顔でこの文章を読む気持ちはわかるが、これは生きるということに深く隣接する概念であると思うので軽く見るのは如何なことか?と疑問を投げたい丁寧な下手投げで。正直仕組み理解せんでも使えてんねんからええやんといいたいのだろうね。ふむ。それではそれは例えば自動車とか携帯とテレビとかそういう生活に本当の本当の本当の本当には必要ではないであろう現在の生活必需品に対して言えることで、お金はそこには含まれていない。と私は思うよ。
やうやうするにお金が欲しいために仕事をしていては真の心の満足感がないという気がするのだがどうだろうか?聞くなよ。本来は直接ダイレクトに狩りとかして得る報酬の代わりがお金という物であると理解しないといけないのにお金をもらうために仕事をする社会になっているのでそこにズレが生じるのではないのかな?それが本当の充足感に繋がらないのでは?という話。

仕事も仕事でねじれとる。生きるのに必要な直接的な仕事以外にどんどん増えていって今は何が必要で何が必要で無いか理解せんまま大人になる大人子供の増殖に胸が痛くなる。小学生低学年や幼稚園児に聞くなりたい職業ランキングなんてのが年に一回二回ワイドショーの少しのネタになったりする。小学生幼稚園児たちはその時々の風潮をしっかり捉えユーチューバーとかアイドルとかゲーマーだとかを急にランクインさせる。そんな職業が出てパネルの横に立つ女子アナが微笑みながら文化人にコメントを求める。なんてのが風物詩化している。が、そのうち物の価値観がずれた大人子供達が蔓延するとそのうち何をヘラヘラ紹介してんねん!子供が真剣に考えてんねんぞ!なんて本質を理解せんクレームなんかも入ってくるんだろうなゲボだよ。
兎に角民主主義資本主義の勢いがお金を稼げればいいなんてなりよくわからない仕事の増加につながっている。もちろん私の目指す仕事は本質的に必要のない仕事であることは今日のコロナ禍で証明されたわけで、それについては充分理解していると思っている。コンビを解散するか世界が崩壊するまでこの仕事を楽しませてもらいます。つまりそれを理解してやっているかやっていないかを基準としている。

しかも最近ではお金として貰えていた仕事の報酬がネットで直接口座に振り込みされ更にはそれをおろすことなくクレジットや携帯で払ってお金を触る瞬間がない。報酬を肌で感じ五感全てで認識し勝ち取り噛み締める機会がないのだ。そしてそもそもお金を使う先はこの平和な世界では生きるために必要な直接的なもの以外に払っていく始末である。ズレのトリプルアクセル羽生ズレル君である。
得た物を効果的に使わないと血や肉にならないのである。そもそも血や肉に還元されないものにお金を使っていって心は満たされても体は満たされないというところもずれになっているのではないだろうか。それを知らない間に継続し続けている現代人は寂しがりやが多いのではなかろうか?心は満足してるのに体は満足してないぞ?何でだ?もっとだ!もっともっと!と欲する。欲してもこの現代にある大半はバーチャル満足でしかないので見えないお金で見えない充足感にエアで支払うわけだ。その連鎖はローリングしていく。高速スピンの連続羽生ズレル君再び登場。

もう一度考えて欲しい。何のために仕事をしているか、お金の価値とは、を再認識して!と羽生ズレル君も仰ってます。三度のズレル君

この記事が参加している募集

お金について考える

サポートしてほしくない訳じゃない。サポートしてもらって素直にありがとうございますと言えないダメな人間なのです。