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車とおじさんと夏休み、そして脱皮

事務所の前で、ラジオ体操のごとく伸びをしては腕を広げ、深呼吸を繰り返ししていたら、車がすーっと来て止まった。
一瞬、緊張。

「知らない人に声をかけられても、ついて行っちゃダメよ。
 車に乗せてあげると言われても、絶対に乗ったらダメよ。
 アイスクリームやお菓子をくれると言われても、もらったらダメなんだからね」
外へ行こうとするたびに、しつこくしつこく母親に言われた夏。
あの日、おじさんは「車に乗せてあげる」とは言わなかった。「幼稚園は、どこ?」と訊いてきたのだ。

知ってることを訊かれたものだから、得意げに、春まで通っていた幼稚園の方角を指して「あっち」と教えてあげた。
なのに分からない様子だったので、
「こう行って、ああ行って」
人差し指を伸ばした腕をフルに動かしながら説明した。
「うーん、一緒に来てくれないかなあ?」
おじさんの頼みに、一瞬、ドキッとする。
『それは、ちょっと……』
教えたい気持ちが大きくて、口と体で説明を繰り返した。
「ここをこう行って、ああ行って」

何度も言ってるのに、ちっとも分かってくれないおじさんは「一緒に来て」を繰り返す。
十円玉をいくつか握ってアイスを買いに来たお菓子屋さんまで、走って数秒の場所。
自分の吐く息すら熱く感じた夏の午後。

「教えてくれたら、またここに戻ってくるから」
おじさんのトレードに安心したわけじゃない。
心の中で“やばさ”を感じながら、一か八かの賭けに出たような気がする。
「戻ってくる?」
「すぐだよ、車だもの」
トレード成立。
戻ってきたらアイスを買って、走って家に帰ればいい。

車に乗り込むとムッとする空気が体を包む。
車特有のガス臭い暑さが不愉快だった。
あの頃の車に冷房なんてついていない。
なぜかバックシートにアイスキャンディが5~6本散らばっているのが目に入った。
機嫌をとるかのように勧められたが、母親にもらった十円玉を握りしめて、そこはきっぱり断った。
『知らない人から、もらっちゃダメ』。

助手席で私が指示するとおりに、車は通っていた幼稚園に到着。
お菓子屋さんの手前で説明したときより、ずっと簡単にスムーズに指示は伝わった。
あとから思えば、あのおじさんは幼稚園のある場所を知っていたのだろう。

閉まった幼稚園の門を通り過ぎ、車はのろのろと進む。
「帰る」
憤然と言うと、おじさんは「分かってる」と言わんばかりに「うん、うん」頷いた。
幼稚園の柵に沿って角を左。もう一度、左。
車が行く道をちゃんと覚えておかないといけない気がした。
幼稚園の回りを半周すると、急発進するように車がスピードをあげた。
瞬間、前のめりになった反動で背中がシートにぶつかる。
郵便局がある大通りに出て、また左。
『次の信号は右!』
心の中で指示したとおりに右折したとき、少し緊張が解けた。
『来た道に戻った』
と思ったら、今度は曲がらなくていい道を車は右へ入った。
「違う!」
「あれ~、ここは何だろう」
ときどき遊びに来る公園の脇に、おじさんが車を止めた。
鳴り止まない蝉の声が住宅街にウワンウワン響く。
炎天下に誰も遊んでいない公園を囲む高い銀杏の木も、風に吹かれてザワザワ言いっぱなし。
声を出しても誰にも届かないと思った。

「帰る」
車のドアを開けようとすると、
「抱っこしてあげる」
おじさんが体ごと引き寄せた。
抵抗する間も無く、おじさんの膝の上。
暑苦しいったらありゃしない。
大人の力にどう抵抗したのかよく憶えていないが、運転席のドアが開いた。
その瞬間、とにかく力ずくでおじさんの腕をすり抜けて外に出た。
ダッシュ!

アイスを買って、何事もなっかたように家へ帰るつもりだった。
十円玉を握ってお菓子屋さんに飛び込もうとした矢先、車に乗り込んだ場所に母が立っている姿が目に飛び込んで足が止まる。
「どこに行ってたの?」
心配なとき、不安なとき、母は泣きそうな顔になる。
話さないで済ますつもりだったのが、訊かれるとやり遂げた感いっぱいに、一部始終をまたまた体を使って説明した。
臨場感が伝わったのか、母はますます泣きそうな困り顔で怒った。
「もう、この子は! あんなに言ったのに~(ぐちゃぐちゃぐちゃ)」
怖さ裏返しの涙手前の小言だったと思う。

母と一緒にアイスを買って家へ向かう帰り道、おバカな子はようやく親の言葉を理解した。
知らない人の車に乗ってはいけないのだ。

今朝は一瞬、何が起こるのかと思ったら、
「東郷公園にいらっしゃい。6時半からラジオ体操やってますから」
運転席の見知らぬおじさんは、爽やかにそう言い残して走り去った。
ラジオ体操より何より、おバカな子ども時代の一コマを思い出してしまった。すーっと寄って来た車の止め方が、あの日の車にそっくりだったから。

あれから、「分かってるつもり」と「理解する」の違いが解るようになったのは大人になってからのこと。
おバカさんの薄皮が何度も何度も剥けて、子ども時代は過ぎていった。
おバカさんほど、脱皮の回数は多いのだろう。
あの夏の日、小学1年のおバカさんは、ほんの薄皮一枚、身をもって脱皮した。

お子達が危険な目に遭わないよう、大人は充分過ぎるくらい気をつけていなければ。

≪🌎07*0813📒230813≫

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