花の不幸は蜜の味
前夜の温泉が効いたのか、明け方4時に寝て、目が覚めたのが午後の2時半。10時間以上の睡眠で、脳内疲れはとれた感じだが、そのわりに気分が冴えない。
やる気がでない。
何か、つまんない。
……、どうやら「つまらないの雲」が降りてきてしまったようだ。
午後も半ば、事務所にいたクマさんを付き合わせて買い出しに出る。
道すがら、歩道沿いで野放図に育った植木が真っ赤な花を満開にしているのを見て、つい呟いた。
「お花はいいなぁ」
すかさずクマさんが、「なんで?」と訊き返してくる。
「咲けばいいんだもの」
考えもなく出た自分の言葉に、拗ね拗ねしさを感じた。
「咲かない花もあるんだよ」
「え?!」
二人、歩調を保ったまま進む中、クマさんの発言が、ちょっぴり刺激になって心をつつく。
「僕がもらったチューリップの球根は、蕾にまではなるのに咲かないんだよ」
またしても「え?!」である。
「毎年、毎年、植え替えても蕾で終わるんだよ」
「なんで?」
「きっと、花になる力がないんだよ」
「ふ~ん」
蕾にまでなって開かないとは、なんて悲しい話だろう。
悲しい話と思う反面、靄がかかった心に興味の芽がムクッと頭を持ち上げていた。
花の不幸話はさらに続いた。
「弟がもらってきたアイリスなんかさ、茎は伸びるのに蕾にもならないんだよ」
「え?!」
「毎年、毎年、茎だけスーッと伸びて終わっちゃう」
よほど球根を植える人の心がけが悪いんじゃないかと思い、誰が育てていたのか訊いてみたら、彼らのお母さまだった。
花を育てるのが好きなお母さまなので、原因は球根を扱う人ではないようだ。すると、球根をもらい受けた人のせいか?
「その育ち方って、球根をもらってきた人に似てない?」
蕾止まりなのも、茎しか伸びずに蕾にもならないのも、球根をもらった本人たちに何となく重なる気がしたのは、つい気がしたままを言ってしまったのは、荒みかけていた心のせいだろう。
「ふん!」
クマさんがムッとした素振りを見せたところで、あるビルのほったらかしの花壇に、ガーベラを小柄にしたようなピンクの花たちが咲いているのを見つけた。
この花壇の前は年中通る。
勝手に根付いた雑草が生えているくらいにしか見えなかったのが、こんなきれいな花が咲くなんて。
二人でちょっと感動した。
さらに歩いていくと、これまた手入れがされているとは思えない花壇がある。乱れて茂った葉に紛れて、まだ固い緑の蕾がいっぱいついていた。
またしても感動。
「ここって、どんな花が咲くんだっけ?」
「忘れたけど、楽しみだね」
そんな会話をしていて気がつくと、「つまらないの雲」はすっかり消えていた。咲かない花の不幸話が心をつつく刺激になって、道端の花に感動して。
知り合いの女性ライターさんがウツになったと聞いていた頃、彼女も知っているある方が交通事故で亡くなられた。事情があって一部の人たちにしか公(おおやけ)にされない中、どこで聞きつけたのか、その話を知った彼女から電話があった。
興奮ぎみに話す彼女の声には張りさえ感じられた。
そういえば、ウツで入院したある校正者氏が病院から電話をかけてきて、「収入がなくなる」と嘆きながら「誰某はどうしてる? 誰某は?」と知人たちの近況を尋ねるので、「Kさんは○億の負債を抱えて大変」とか、「Yさんは○百万のギャラがもらえない」とか話してやったら、ぐちゃぐちゃ嘆くのが止まった。
「他人の不幸は蜜の味」と言うけれど、「他人の不幸」が美味しくて喜ばしいわけではないだろう。
心理学や脳内メカニズム的な説明はつくだろうが、単純に言えば、不幸話は心をつつく刺激と思っている。眠気をもよおす、締め切っていた部屋の窓を開けたら、冷たい空気に心身が目を覚ます、みたいな。
花の不幸話で「つまらないの雲」を追い払えた私には、「花の不幸は蜜の味」。「つまらないの雲」の中で気分が眠っていては、道端の花にも気がつかなかったかもしれない。
《09》
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