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気色悪さの痕跡

二十代半ばに一人暮らしを始めた頃、日記帳を買って付け始めたことがあった。
が、三日続けて書いたためしがない。
書きたい日だけ書けばいいや、とすると半年くらい何も書かなくなる。
こりゃ、いかん! と心機一転しても、元の木阿弥でちっともページが進まない。
そのうち半年どころか5~6年ほったらかしにして、また気持ち新たに書き始めるが例によって続かない。

引き出しの整理の折に昔の日記帳を見つけて呆れた。
書いてあることと言ったら、

 よし、頑張ろう。

 頑張るぞ!

 頑張る、頑張る。

間隔の開いた日付で記される意気込みひと言日記。

我ながらもっとも気色悪かったのは、

 がんばれ~!

自分へのひと言応援。

自分に対して気色の悪い愛情表現をしているようで、そこが恥ずかしい以上に気持ち悪さを感じた。
で、その日記帳はあっさり捨てた。

もっと気色悪いものが出てきた。
A5版のノート2冊。
表紙には、ひらひらのエプロンドレスを着たヨーロッパ調の少女の絵が描いてある。それはそれは、少女好みの愛らしいノートだ。

気色が悪いというより、見つけてギョッとした。
14~15歳の頃に書き綴ったんだね、ポエム。

ヒェーーーーーッ

ひとり、悲鳴にも似た声を発してひっくり返ってしまった。

行方不明とか孤独死とかなんてことになって、家族や知人が、
「何でしょう、このノート?」
と手にして開いてしまったら……。
そんな想像をすると、捨ててしまったほうがいいかとも考えたが、あのギョッとする気色悪さはむしろサプライズ!の域なので、ノートは今もどこかにある。

過去に書いたものを開く。
賞味期限が切れた食べ物を、怖々クンクンしてみる感覚。
萎びたり干からびたりの程度だと、まだ面白みに欠けるが、変色激しくド派手なカビが生えてたら、自分で自分にサプライズ。

「自分で自分を応援」の日記帳よりは、2冊のノートは持っていてもいいような貴重感がある。
結局、自分の気色悪さの延長線上にいるものね。

その痕跡を覗き見て、たまに自分を肝だめししたい怖いもの見たさというのがある。
ただ、こういう気色悪さも、何度も見て認めてしまうと濃度が薄まって、だんだん自分の一部として馴染んでくる。
そうなると、遠い遠い十代の頃の欠片としての貴重感が増して、捨てるのは先延ばしになってしまう。
まあ、何でもかんでも捨てなくてもねえ。

誰かが見て驚くなら驚け!といった開き直り。


≪🌎071201*P07📒231201≫

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