夢のあわいに

 昼下がり。シャンゼリゼに面した窓から午睡の光が遠慮がちに部屋を覗きこみ、すでに安楽椅子の上でこくりこくりと舟をこいでいる女の顔をおずおずと撫で上げた。温かさと眩しさに彼女が微かに目を開け、おぼつかない手つきでブラインドを閉めた。ぐっと伸びをすると、焼けたように色彩のない灰色の髪が薄暗がりにふわっと広がる。猫のように目を細めたまま、灰色の女はぐるりと部屋を見回した。隣の書斎を掃除していた音がやみ、ひょいと活発そうな少女の顔がのぞく。
「おはよ、クオン」
「おはよう、ベレッタ」
 物憂げに答え、彼女──クオンはまだ眠そうに椅子を揺らした。
「何時?」
「もう二時過ぎ。レナンは買い物」
「ああ、そう」
「何か食べる?作るよ」
 クオンはぼんやり、猫のような目を細めたまま考えていたが、ベレッタが二回目の瞬きをすると同時に口を開いた。
「あれだ。紅茶とジャム…アプリコットのやつ。ほしいな」
 えー、とベレッタ。つい先日十八歳になったばかりの彼女は、屈託のない笑顔を浮かべると、持っていた本を置いてキッチンへ向かった。快活でよく通る声がのびやかに届く。
「全然お腹にたまらないでしょ。いいの?」
「今は我慢する。レナンが戻ったらおやつにしよう」
 対照的にクオンの声は落ち着いて少し低いけれど、しんと静まった空気の中を魚のようにするりと、抵抗なく、トーンを落とすこともなく、銃弾のように正確に響いた。椅子が思い出したように軋み、通りの喧騒…車の通る音、人の声、下の階の老夫婦が飼っているカナリアの歌、そういったものがクオンの聴覚に流れ込んでくる。紅茶の缶を開ける軽い音、スプーンがぶつかり、ポットに茶葉がさらさらと落ち、お湯の沸く快いリズムが伝わる。少し集中力を傾ければ、誰かが階段を上る音まで聞こえる。更に先──…彼女が本気で聞き取ろうと思えば、きっと向かいのベーカリーで劇場の思い出を語り合う老女たちの会話まで理解できるだろう。
 ふっと息をつくと、聞こえるのは跳ねたお湯に毒づく少女の声だけになった。ゆるいスラックスの隙間に男物のシャツを押し込み、クオンは立ち上がった。普段着は──異常に古びた灰色の装束とクロークは壁にかけられていたが、すすけたベルトだけは目の前、テーブルの上に無造作に置かれていた。今やアンティークと呼んで差し支えない皮のホルスターには、彼女がこの世で最も信頼を置く相棒がどっしりとその銃把を差し出していた。慣れた手つきでそれを抜き、くるりとスピン。もう一度、今度は逆にスピン。腰だめに構え、撃鉄に左手を添え、トリガーを引く、ふり。空想のターゲットが全員、コマのように倒れる。
「今ので何人?」
 硝煙の幻の向こうから肩をすくめたベレッタが現れ、新聞の切り抜きや余った栞、ピーナツバターの空き容器が散乱する机をかき分けるようにティーポットを置き、小皿に乗せたジャムを差し出した。
「五人かな。シックスシューターになるのはほんとに困ったときだけさ」
 ごとり、銃を置いてジャムを受け取り、それからまた机の上にあるものを雑にどかしてカップを置くと、躊躇うことなくその中にジャムをまとめてぶちまけた。
「一発は残しておいたほうがいいんだ。何かとね」
 ふーんと生返事をして、ベレッタは銃に手を伸ばした。クオンは特に何も言わず、うずくまったジャムの上に容赦なく熱い紅茶を注ぐ。
「重っ。レナンのよりずっと重いよね、これ」
「時と信頼の重みだよ。…あっつ。熱いな、まだ」
 少女の手に最も似つかわしくない物体は、ただ静かに光を反射してくろぐろと佇んていた。シリンダーに精緻なサクラの文様が彫り込まれ、グリップにはあまりにも似つかわしくない文字が──ベレッタには読めなかったが、漢字が二文字透かし彫りにされていた。“奈落”。
「あたしも…銃とか、剣とか、そういうのほしいなあ」
「あったって使わないだろう。ぼくらは使うけど、普通は使わないものだ」
 それはそうだけど、と言いつつ、ベレッタは重たいリボルバーをテーブルに戻した。
「武器が必要になる生活なんてろくでもないんだからな。まあ、別に止めやしないけど」
「分かってるし。いいもん、撃ち方は知ってるしー」
「今度はガンスピンも教えてやるよ」
「あれすごいよね…こんなに重いのにさ、指、折れたりしない?」
「鍛えとけってことさ」
 イミわかんないし、とむくれる少女に曖昧な微笑みを返しながら、クオンは目を細めてカップにちろっと舌を入れ、顔を顰める。
「熱いや。氷が欲しいな」
「は?紅茶に氷入れるつもりなの?」
 信じられないという表情のベレッタ、苦笑いのクオン。アプリコットの香りが所在なさげに揺れている。色彩のない灰色の瞳が、少女の表情をじっと見つめる。
「いいだろ、別に。ぼくはいいと思う」
「あたしは絶対ありえないと思うけどな。レナンだってやらないよ」
「なんにでもピーナツバターを入れるやつと一緒にされるのはごめんだな。分かったよ、じゃあミルクでお願いします」
 絶対その方がいいよと笑いながらベレッタが引っ込むと、クオンはまた思案にふけるように目を伏せて椅子にもたれた。
「今日は…何曜だっけ」
 カレンダーを目で追うが、そもそも何日だか思い出すのが面倒になって、やめた。特に意味のない行為…指先で引き出しの取っ手を弄んだり、最後に煙草を吸ったのがいつだったかぼんやり考えてみたり、あるいは手に残ったままの銃の感触を確かめるように手を握ったり。老人みたいだな、とクオンはぼんやり考えた。老いることのない肉体と精神、変化の起こりえない自我。常に終着点の一番近くにいるという意味で、老人と言えないこともない。窓際でぼうっと外を見つめ、在りし日の思い出を瞼の裏でこねくり回して日がな一日を過ごす、幸福な老後生活。違うとしたら、クオンは既にそれを三百年近く続けていることと、一度は死を経験していること。そして、年月の重みではなく戦いの結果によって本当の終わりが訪れることだろう。
「お待たせ。はい、フレッシュ」
「カフェか。ありがと」
 ベレッタは違う。彼女はどうしようもなくこちら側に関わってしまっただけの人間で、当然そうして生きる権利がある。あるいはそうでなくてはならなかった…はずだ。ベレッタ、銃弾なんて名前じゃなく、本当の名前だってある。それでも、彼女は自分でそれを選んだのだ。彼女が幼い決意を固めた日から八年、それは揺らいでいない。そして、クオンもレナンも、それを尊重した。あるいは、それに無関心だった。自分がどう生きるかを選択できるのは人間の特権だ。不条理な奇跡に縛られた彼女たちは、既に人とは断絶した価値観と認識のもとで生きていた。
 日差しがわずかに動き、テーブルの上で暗示的な輝きを放つ漢字を細く照らした。
「これ、なんて読むんだっけ」
「奈落だよ。な、ら、く。底が見えないくらい深い、って感じの意味だ。ジャパンの…なんかの用語だったはずだけど。なんだっけな」
「なんだっけって…愛銃の名前じゃないの?」
「ぼくは愛してなんかいないさ。こいつがぼくを愛してるんだ」
「イミわかんないし。てか、掃除の途中だったの忘れてた」
「別に掃除なんてしなくてもいいだろ。汚れてるのか?」
「気分の問題なの、気分の!汚れないことくらい分かってるけどさ、ホコリがないわけじゃないし」
「あいつのは本人に似ていい加減な能力だからな。どれ、手伝ってやるか」
 腰を浮かせかけたクオンは、伸ばした手に遮られて再び深く腰を下ろした。
「いいよ。クオン、掃除とか向いてるタイプじゃないでしょ」
「ご明察だな。捨てるのは得意だ」
「その辺に捨ててくるくらいの意味で言ってるでしょ」
 クオンは肩をすくめ、もう生ぬるくなった紅茶を一息に流し込んだ。カップの底にわだかまったジャムがどろりと不自然に溶け出し、薄い唇の向こうへ流れていく。
「ジャムと牛乳が両方入ると変な感じだな」
「アイスティーでも作っておけばいいじゃん。それか諦めてストレートで飲みなよ」
「熱いのは苦手だけど、冷たいものが飲みたいときってのはあんまりないな」
「体温低そうだもんね。測ったことある?」
「あるわけないだろう。スペイン風邪の時だってない」
「なにそれ、ビョーキ?風邪?」
「大勢死んだのさ。ペストとかそういう…聞いたことないか?」
 尋ねつつ、クオンは興味なさげに電話のコードを指でくるくる弄んだ。電話が鳴ることはめったにない。
「あたし学校行ってないし、友達もいないからなー。歴史とか勉強したことないよ」
「ああ、そういえばそうか。本とか読まないのか?」
 読むけどー、と目を泳がせ、指さした先には黒い装丁の分厚いハードカバーが置かれていた。納得するクオン。
「面白そうな本って置いてないじゃん。あたし、出かけてもジムくらいだし、仕事あるし。レナンはそういうの興味ないし…あ、ていうかさ、クオンもずっと昔から生きてるんでしょ?歴史の講義してよ」
「教科書に載らないような歴史ばっかりだぞ。歴史的な事件とかの裏には必ず非実在性の出来事があるもんだからな」
 アンチリアライズ、と口にするとき、クオンは少し顔を顰め、無意識のうちにちらりと自分の銃を見遣る。
「フランス革命の話はレナンの方が詳しいかもだけど。ぼくもあちこちフラフラしてたし、これといってためになる話はないな」
「いいよ、どうせ教科書とか読まないし。冒険譚みたいなやつ聞きたいな」
 冒険譚ねえ、と言いつつクオンは考え込んだ。ベレッタはそんな彼女をじっと見つめ、まるで異世界の旅人めいて不自然で、かつ洗練されたその容貌とたたずまいに、言い知れぬ憧れと誇らしさを覚えていた。物憂げに伏せられた睫毛も、瞼の奥の虹彩も、髪の先から彼女がまとう匂いまで、全てが灰のようだった。香ばしくて、元々がなんだったのかは分からない、柔らかくて細かな灰。普通に火をつけて燃やしてもできないような、魂の芯まで燃え尽きたあとのような、そんな印象を受ける灰だ。
 騒がしい学生の一団が、窓の下を通り過ぎていった。クオンはまだどこか遠くを見つめながら、ぽつりと言った。
「ああ…そうだなあ。魔女狩りって知ってるか?」
「あ、それは知ってる。ちょっとだけど…魔女だって決めつけて拷問したり処刑したりしちゃうやつだよね」
 ベレッタは部屋のあちこちにうず高く積まれた本の上にひょいと腰を下ろした。不自然に埃のおりていない書物の塔は少しだけ揺らいだが、少女の体重を支えるには充分だった。
「そうそう。ぼくも詳しくは知らないが…その中に、本当に魔女だった婆さんがいてさ」
「え!魔女って本当にいるの?」
 ベレッタが本気で驚いたのを見て、クオンは苦笑いしながら引き出しを開けた。乾いた煙草がいくつか転がり、無造作に摘み取った一本に指の先で火をつける。
「そういう意味じゃ、ぼくだって魔女みたいなものだろう」
「ちゃんと窓開けてよ、クオン」
「はいはい…」
 のろのろとブラインドを上げると、僅かに角度のついた日差しが喜び勇んでクオンが吐いた煙にぶつかって、水中のように光の帯が散乱した。
「この窓、開くのか?鍵ついてないけど」
「下から開けるんでしょ。前もやったじゃん」
 そうだっけ、とぼやきながら、クオンは勢いよく窓を引き開けた。煙が外へ吸い出され、よく晴れた空に消えていく。壁からつばの広い灰色の帽子をとってくるくる回したあと、クオンはまた喋り出した。
「ええと…魔女の話だよな。ぼくは当時ヨーロッパをフラフラ歩き回ってさ、ワインをため込んだり、今じゃおそろしく旧式になっちまったような銃を集めたりしてた。そんな時、ルーマニアの国境近くの村でその婆さんに会ったんだ。教会の人間がいてさ、ああ、ここもやってるなあって思った…ま、だいたいどこでも見られた光景だったんだ。見るからに貧しい村で、しかもその年はそれなりの不作でさ。ま、不幸を魔女のせいにできるんだったらしてしまえって精神だよな」
 ベレッタは好奇の光を目の奥で揺らしながら、黙って聞いている。記憶をたどるように帽子の下で灰色の視線が泳ぐ。
「それでそれで?」
「別に面白い話じゃないんだけどさ、その婆さん、ぼくのことを見るなり魔女だって叫んで…」

「魔女だ!魔女が来た!あたしゃ知ってるんだよ、こいつが魔女だ!見ろ、女のくせに外套を着て、ズボンを穿いているやつがいるかい!殺せ!魔女を殺せ!」
 老婆の乾いた絶叫が響くや否や、集まっていた村人たちがいっせいに振り向いた。誰もが一様に農具や包丁で武装し、教会の礼服をまとった神父でさえ銃を握ってこちらを見ていた。夢法者の視覚が、火薬の爆ぜる瞬間をとらえる。溜息をつく間もなく、灰色の女に銃弾がめり込む。人間性の欠片も見当たらない、押し殺したような歓声が上がった。誰もがよそ者の体がコマのように回りながら血を噴き出し、倒れると思ったのだ。
 実際にはそうならなかった。銃弾は彼女の身体に当たった瞬間、雨粒のようにべしゃっと弾けて彼女の服に鉛色の染みを作った。それが少しずつ、まるで生きているように滴り落ちていく。銃を撃った神父が不思議そうに…獣がそうするように僅かに首を傾げた。次の瞬間には、クオンの放った銃弾が神父の頭を吹き飛ばし、そしてその肉体が不自然な液体へと変わっていった。溶けていた。匂いもなにもなく、ただそれが初めから氷で出来ていたかのように、その身体は溶けていた。
「まだやるかい」
 右手の拳銃を──まるで未来から持ってきたかのように精巧なつくりの銃をくるりと回しながら、クオンは挑戦的に言った。村人たちは畏れるようにじりじりと後退し、わななく老婆の周囲を守るように取り囲んでいた。
「ま、魔女…」
「魔女さ。とびっきりの魔女だとも。魔女の真似事で欺けるほど、ぼくは安くないよ」

「…てな感じ。その婆さんが言うことには、先祖代々伝わる魔法の杖といくつかの薬草があれば、他人の精神でも操れるんだと。それを使って役人たちをごまかしたり、あるいは魔女をでっちあげて殺したりしていたそうだ」
「へええ…クオンは?そのあとどうしたの?」
 クオンはつまらなそうに煙草の火を消し、窓を閉めた。
「二度とつまらないことできないように、魔法の杖をドロドロにしてやった。砕いても破片が残るけど、溶かしちゃえばもとには戻らないだろうからね」
 そのあとのことは知らない、どうでもいい…そんな風に嘯きながら、クオンは窓を閉めると椅子を立って玄関に向かった。ベレッタが不思議そうについていく。
「どこか行くの?」
「帰ってきたぞ」
「なんだ、レナンか」

 シャンゼリゼ──フランスで最も名の知れた通りの真ん中あたりを半歩ほど裏に回ったところに、古いビルの入り口がある。街並みと街並みの間にあとから張り付けたように作られたその建物は、外見よりもずっと広く、そして奇妙な摂理に…この世ならざる法則に基づいて、造られていた。詰め込まれたように狭いエレベーターは来客用のもので、彼はいつも階段を使う。ガラス張りの螺旋階段、十八世紀の意匠、木造のドア。それはずっと変わらず、ここが調律調停局リエゾンとして機能し始めてから保持されてきたものだ。超自然の力場に守られた床の木材は、幾度となくそこを通ったはずの彼の足跡さえ残さない。
「ドアの前にいるのは分かってるぞ。開けろ、クオン」
 彼──レナン・マズリエは、ノックもせずにドアの前で声を張り上げた。応えて女の声。
「せっかく待っててやったのに、なあ?こういう男だよ、まったく」
「レナン、お茶とコーヒーどっち?」
 レナンは溜息をついて足元を見、それからドアノブを見た。
「コーヒー。ベレッタ、そこの不愛想な女をどかしてドアを開けろ」
「自分で開けたらいいじゃん」
「ドアを開けて陰気な女が立ってるところを見たくないんだよ。俺は疲れてんの」
「わがまますぎる…」
 呆れた顔でベレッタがドアを開けると、レナンはその手元に長方形の箱を投げてよこした。右手の買い物袋──ピーナツバターのパッケージが透けている──を持っていそいそと冷蔵庫に向かいつつ、何も書かれていない箱に首を傾げるベレッタに一言。
「誕生日プレゼント。結局やってなかったろ」
「えっ」
「は?」
 思わずクオンまで声を上げたのを聞きとがめ、レナンは憮然として安楽椅子に身を投げた。片付けられていない紅茶のカップを無造作にずらし、ピーナツバターの蓋を開けてナイフを差し込む。
「俺が人の誕生日に物をやったらおかしいか?」
 真っ先にクオンが頷いた。
「おかしい。八年いて、七回あった誕生日にやらなかったプレゼントを突然やるのはおかしい」
「ベレッタ、早くコーヒーを淹れてくれ。ついでにこいつの口にも熱湯をぶち込め」
「淹れる、淹れるよ!の前に、開けてもいい?」
「気をつけろよ、ベレッタ。爆発するかも」
「黙らねえと一発ぶち込むぞ」
 くっくっと楽しげに笑いながら、クオンは両手を上げてベレッタを見守った。少女の手がリボンもなにもない無味乾燥な白い箱を開き、そこにあったものを見たとき──再び、灰色の女は窓際でぼうっと外を見ている男を振り向いた。
「レナン」
 真剣な声色にしかし、レナンは鬱蒼とした視線を返しただけだった。しんと張りつめた二人の間の空気と裏腹に、ベレッタは満面に笑みを浮かべてその誕生日プレゼントを、少女の手には最も似合わないものをぎゅっと胸に抱いて叫んだ。
「レナン……ありがとう!私、大事にする!」
 いくつか法外なカスタムの施された自動拳銃。ベレッタ社製。12発装填。少女はまるでずっと待ち望んでいたようになめらかな手つきでマガジンを差し込んでスライドを引いた。
「いいか。そこで俺を睨んでる女がいるから言っておく。そいつはお前のものだ。が、ルールがある。いいな?」
「うん」
「よし。ルールその一。人に向けて撃つな。相手が悪人でも、まずは逃げろ。銃があるから何とかなると絶対に思うな。本当にどうしようもなくなったら銃口を向けてもいいが、撃つな。撃たずにどうにかなる方法を常に考えろ…分かったな?」
 ベレッタは神妙な面持ちでそれを聞き、何度か小さく頷いた。クオンは冷ややかにレナンを見つめながら、どこかそれを受け入れたように腕を組んだまま黙っていた。
「わかった。絶対、人に向けて撃たないよ」
「おう。ルールその二。自分に向けて撃つな。説明はいらないな?」
 少しショックを受けたようにベレッタはよろめき、手の内にある黒い武器を見た。トリガーは滑らかで、グリップは彼女の手に冷たく馴染む重さをしていた。
「…うん。自分に向けて、撃たないよ」
「…ああ。どんなに絶望しても、銃口の中に何がいるかは確かめなくていい。俺だって知らないんだからな。さて…ルールその三。持ち歩いてもいいが、面倒を起こすなよ。手入れと練習はここでやれ」
 ベレッタの表情が少し和らいだのを見て、レナンは組んだ手の甲に顎を乗せて頷いた。
「ま、そんなもんだな。あとは…ま、知りたいことがあったら聞け。俺はお前を…なんだ、身の程知らずのガキじゃないと見込んでそれをやる。あとは自分でなんとかできるだろ」
「うん!ありがとう、レナン!コーヒー、淹れてくる!」
 ぱたぱたと少女が出ていくと、応接間の沈黙は二回りほど重くなった。レナンは何も言わず、引き出しから煙草を取り出した。雑然とした机の上からライターを発掘しようと伸ばした手の上に、マッチの箱が放られる。
「窓を開けろよ、レナン」
「はいはい」
 クオンもまた無言のまま、レナンの前にじっと佇んで彼を見下ろした。レナンが窓を引き開けると、通りの喧騒が不可視の障壁ごしに入り込んでくる。煙が窓枠を乗り越え、空へ消えていく。コーヒーの香りが漂い出す。レナンがしぶしぶといった調子で口を開いた。
「なあ、クオン」
「ああ」
 二人が見上げる空は同じ色をしている。クオンも煙草を咥え、その空へ煙を吐いた。
「あれだよな、お前さ、自分の事嫌いだろ」
 クオンはしばらく黙っていた。ベレッタがカップを乗せたトレイを危なっかしく運んでくると同時に煙草をもみ消し、角砂糖を三つ入れ、答えた。
「うん。お前より嫌いだ」
「何の話?」
 きょとんとするベレッタに笑いかけながら、クオン・ローは熱いコーヒーを一息に飲み干した。言い知れない重みがその瞳に宿っていた。
「なんでもないよ。大人の話さ」
「へえ、そ。じゃあ興味なーい…ていうか、熱いの苦手なんじゃないの?」
 今度はクオンがきょとんとカップを見つめる番だった。そうしてから、灰色の女はまた笑ってベレッタの頭に手を置いた。
「ああ。苦手だよ。熱かったなあ」
「うわ、ただでさえ変なのがもっと変になった…レナン、なんかしたの?」
 レナンは窓の外を見つめたままピーナツバターを舐め、コーヒーを啜り、机の上にあった分厚い本をぱらぱらとめくった。クオンはそのまま灰色のクロークを取ると、ドアへ向かった。
「レナン、服は借りていくからな」
 男物のシャツ、ゆるいスラックス、そして燃え尽きたような灰色の外衣。ちぐはぐで奇妙な恰好のまま、クオンはいくつか備え付けてあるサンダルを履いた。
「どこ行くの?」
「あー、ちょっと散歩。川の方までさ」
「おやつにするんじゃ…」
「パス。夜は奢るよ」
 ひらひら手を振ってクオンが出ていき、ベレッタは溜息をついて本の上に腰を下ろした。
「はーあ。…レナン、なんかしたんでしょ」
「してねえよ。あいつが勝手に…なんかしたんだろ。お前、夜どこで食うか決めとけ。できるだけ高くて美味いとこな」
 無責任に言い放ち、レナンは椅子にもたれて目を閉じた。午睡の光が、その顔を恐る恐る撫で上げた。アーモンドの形をした翡翠色の瞳がまぶたに隠れる。彼は眠らない。寝たふりはするが、眠ったことはなかった。ただ沈思のうちに瞑目し、黙考のうちに呼吸を深める。一度目の死を迎えてから、彼は眠れない。ずっと、ずっと。

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