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「不正な管理人のたとえ」をどう読む

1.不正な管理人のたとえとは

「不正な管理人のたとえ」は、新約聖書の「ルカの福音書」16章1~13節にある、イエスが語ったたとえ話だ。大体こんな話だ。

「金持ちの主人に仕える財産管理人が、不正がバレてクビにされることになった。彼は失職後に困らないように、主人に借金のある人たちに恩を売ろうと、証文の金額を低く書き換えてやる。これを知った主人は、この管理人が賢く行動したのを褒めた。」イエスはこのたとえの後、「不正の富で友を作れ」と語った。

ルカの福音書16章1〜13節(要約)

これを一読して納得できる人はいないのではないか。聖書を引用すると、

 16章8節「主人は不正な管理人が賢く行動したのをほめた」
 16章9節「不正の富で、自分のために友を作れ」

ルカの福音書 新改訳2017

これは不正を認めているのか?良い目的のためなら不正が許されるのか?

イエスはこういう風に、ときどき不思議な言い方で、奥深いことを語る。だからここにも何か深い意味があるに違いない。でもそれは何?

2.ある神父さんの説教より

ある人から、ここの興味深い解釈をしている説教を教えてもらった。カトリック六甲教会の説教で、タイトルは「正義に勝る愛」。こちらのページから聞くことができるが、「聞きどころ」として3つ挙がっている。

1)不正な管理人はイエス様
2)私たちの価値観では、罪の赦しは正義に反する場合が多い
3)しかし神の国では「愛は正義に優先」する

これだけ見るとかなりびっくりするが、実際聞いてみると、妙に納得感があった。ただ、この納得感には、説教中では詳しく触れていない暗黙の了解、前提があるように思う。ここでは、各聞きどころの前提を考えてみた。
(番号は上と対応させた)

1)イエスは重荷を軽くしてくださる方

説教では、管理人が債務者の借金を軽くしていることから、これは私たちの罪を赦してくれるイエスのことだと解釈している。これは「不正」ではなく「軽くする」ことに着目しているからだと思う。マタイ11:28-30にあるように、イエスは私たちの重荷を軽くし、負いやすくしてくださる方だ。だからこの管理人と共通性がある。これが一つ目の前提。

2)正義に反すると秩序が乱れる

説教では、罪には相応の罰を与えるのが「正義」だから、罰を与えずに赦すことは「正義ではない」としている。なるほど、そう言われればそうかもしれない。なぜ正義を守るべきなのか、それは秩序を保つため。罪を犯しても罰せられないなら、抑止力がなくなり秩序が乱れる。そういう前提があっての、「罪を赦すのは正義に反する」ということだろう。これと違うケースは、当事者である被害者が加害者を赦すような場合で、これは一般には美談とされる。

3)神は実は愛と正義を両立させている

聖書の他の箇所に「神は愛なり」や「もっとも優れているのは愛」とあるように、愛に最大の価値を置くのはわかる。ただし、それは正義を曲げたわけではなく、イエスが十字架を通して犠牲になることを伴っている。負債はどこかへ消えてなくなったのではなく、イエスが払ってくれている。だから実際は、正義と愛を両立させているのだ。神にしかできない方法で。そういう信仰が前提にある。神の国は、愛と正義が調和しているところなのだ。

以上、こういう信仰の前提を押さえていることが、この説教の解釈に納得できる条件だろう。

3.ロジックに注目してみる

自分なりに「不正な管理人のたとえ」をどう読むか思案しながら、少し先のルカ18章を読んでいた。18章でイエスは「人を人とも思わない裁判官」のたとえを話す。毎度設定が面白いな。大体こんな話。

ある町に、人を人とも思わない裁判官がいたが、そこに一人の寡婦が訴えを持ってきた。彼は面倒で放っておいたが、彼女が何度も訴えてくるので、とうとう根負けして裁判をしてやった。

ルカの福音書18章2〜5節(要約)

この解釈は難しくない。1節にちゃんと「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるため」と書かれている。そして7節で「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている選ばれた者たちのためにさばきを行わないことがあろうか」と結んでいる。とてもわかりやすい。

この「まして神は」を見たとき、「おお」と閃いた。ここでは「この裁判官は誰を指しているか」という議論は不要なのだ。注目すべきは寡婦の諦めない姿勢と、「まして神は」で繋がれている前後の関係ではないか。

この裁判官はひどい奴だが、そんな裁判官でも繰り返しの訴えは聞いてやった。
まして神は、
神に叫び続けている者の声を聞かないだろうか。

趣旨:失望せず祈り続けよ。神は聞いてくださるから。

もしかして「不正な管理人のたとえ」も、このロジックで読めるのではないか?

不正な管理人は、自分の身の上を考えて人に恩を売り、賢く振る舞った。
ましてあなたがたは、
永遠の住まいに迎えてくれる者と友になることに必死になれ。

趣旨:永遠のいのちに至りたければ、救い主を求めよ

この16章の前は有名な「放蕩息子のたとえ」、その前は「なくした銀貨を見つけたたとえ」、その前は「迷った羊を見つけたたとえ」だ。これらはすべて同じ趣旨、「神のもとに立ち帰る」、すなわち「永遠のいのちに至る」ことを様々に表現している。だとすると、その続きで語られている「不正な管理人のたとえ」も、趣旨は同じと考えるのが自然だろう。そして実際、18章の裁判官のロジックを参考にした結果、このたとえでも同じ趣旨が導けたわけだ。

これはAのこと、これはBのこと、と具象を導くのは預言書の読み方の一つだし、「放蕩息子のたとえ」では「父親」が神を、「弟」が神に背を向けた人を指すが、では「兄」は誰?という議論も起きる。時には一歩引いて、具象よりもロジックに注目してみるのもありなのではと今回思った。

聖書は実に深くて面白いなあ。