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【色弱デザイナーが出来るまで】バブルの崩壊はあれど人は足りない。そんなデザイン会社事情。

以前、面接を受けたデザイン事務所が、また、募集をしていた。
返事をもらってなかったなぁ…。と思いながら、もう一度応募してみた。
私のその頃の論理では、落選と言う言葉も聞いていないし、忘れられているだけかもしれないから、もう一度思い出してもらおうかなという気持だった。

その頃、そのデザイン事務所は、あまりにも過酷な労働条件で、いわゆる今で言うブラック企業だ。
初日から、徹夜させたら、次から出て来なくなった。
苦笑いだ。
そんな状態だった。

デザイン事務所では、入る人、入る人ことごとく辞めていく。
そうした中で、見覚えのある履歴書がデザイン会社に届く。
私の履歴書だ。

これ、2〜3ヶ月前に応募してきた奴だよね。
そういう会話がなされ、落とされても、また応募してくるくらいだから、長く持つだろうと思われ、面接に呼ばれる。

以前、社長が逮捕されたイベント会社で、切り貼りして作ったイベントの参加者募集のポスターを見せる。
女性社長と、チーフデザイナーが、作品を前にして、言う。
こういうの、うちでも作ってるんだよね。
カラーカンプとか、作れそうだよね。
いいんじゃない?いつから来れる?
その一言で次の日から出社する事になった。

ドキドキしながら、初めての職場。
おはようございます…。とドアを空けると、社員は3人。女性の社長を入れて4人の社内で、全員が、紙くずに埋もれて眠っていた。
床に転がっている人。机に突っ伏している人、寝方はさまざまだった。
細長く切り取られた紙クズは大量で、最初の仕事は紙くずを片付ける事だった。

かっこいいなぁ…。
そう思った。
そう思ってしまったことが、これからのデザインをやっていくことになる要因のひとつとなる…。

何もできない自分が、いつかこんな風に、全力で働く事ができるんだろうか…?
そういう不安もあったが、デザイン事務所に入れた嬉しさの方が勝っていた。

その頃、デザイン作業は、全て手作業だった。
トレシングペーパーと、レイアウト用紙。
コピーと、写植。
切り貼りとロットリング。
荒い印刷物のロゴを、拡大紙焼してトレシングペーパーでなぞったり、コンパス、三角定規、ロットリングなどでラインをキレイにして、紙焼。
人の手だけで動く職場。
職人の職場だった。

手を使って作業する事に純粋に憧れた。
手でつくられたチラシと、色校正紙。
トレシングペーパーに鉛筆手描きで作ったペラペラなレイアウトは、版下屋の手によって、写植(写真植字)という文字と、モノクロコピーが切り抜かれた写真のアタリ(大きさの目安として貼られているもの)で、版下というものになってくる。
その版下にトレシングペーパーをかけて、色指示をする。
色指示はCMYKのパーセンテージで行われる。

頭の中だけで考えてつくる色指示だ。
製版が作る色校が仕上がってくる迄、その出来がどうかはわからない。
チーフデザイナーが、色指示をしているのだが、色校が出る日は憂鬱だと、いつも愚痴をこぼしていた。
イメージした色が、全く見栄えがよくないのだ…。
相手は、熊本で大手のクライアントだ。
とても、尊大な態度で嫌味を言い続けられるらしい。

当時、今のような、パソコンひとつでデザインが出来るなんてことは無く、そんな夢のようなMacintoshは、まだ広まっていなかった。
パソコンは、まだ、オタクの使うもので、パソコンが趣味というのは、恥ずべきことのように受け止められていた。

バブル期を経験し、遊びも、仕事もアクティブな人間が喝采を浴びていた時代で、栄養ドリンク、リゲインのCMなど、花形営業マンが、マーチのリズムで24時間戦えますか?という歌詞で一世を風靡したように、働くというのは、バリバリの外交的な折れない営業で、遊びと言うのは、爆音の中で踊り狂うようなクラブのようなものだったり、派手に雪山やサーフィンなどを楽しむという、アウトドアを指していた。

家に閉じこもって、カタカタとキーボードを叩いている人間への理解は得られておらず、侮蔑の対象でしかなかった。

そんな先入観で、当時の世の中は動いている。
そこに登場したのがMacintosh(マッキントッシュ)と呼ばれるアップルコンピュータが作ったパソコンだった。
Macintoshユーザーは、そのパソコンをPCと呼ぶ事さえ厭うような、『おしゃれさん』のプライドを持つ鼻持ちならない人間であったかもしれない。Macintoshは、マックという相性で呼ばれ、触るだけで満足度を得られるドラッグのようなものであるかのようだった。
そして、それを使いこなせないにも関わらず、私が入社したデザイン事務所は、マックを購入し置いてあった。
個人事業主に毛が生えた程度のデザイン事務所にとっては暴挙とも言える。

その頃は、本体自体が50万、モニターが21インチで20万、カラーの荒いドットで出る滅茶苦茶遅いドットプリンターが更に20万という価格だった。

女性の社長は、得意げな顔で、「これからは、DTPって言って、パソコンでデザインができるようになるのよ。こっちの事務所に置いてあるから、いつでも声をかけてくれたら使っていいからね。」と、言った。

パソコンで、何ができるのか
DTPが何者なのか。
私は、何もわからず、先輩が描いたという、子供の落書きのような『ちびまる子ちゃん』がモニターに投影されているのを、何の感動も無く眺めていた。
その時の感想は、こんなへたくそな絵を100万近く払った機材で描くんだ…。どんな冗談だろう…。
恐ろしい事に、女性の社長は、そのイラストを結構上手だと褒めていた。
100万の機材を仕入れ、その機材を使いこなす事ができていなかった。
パソコンで絵をかける、という感動がそういった言葉を言わせていたのかもしれない。

その当時、使っていたマックはIIci。
チーフデザイナーはLCというコンパクトなマックを使っていた。
チーフデザイナーは、マックの勉強と言いながらキッドピクスというソフトをよく立ち上げていた。
スタンプで絵をかけるソフトで、クリックするだけでスタンプが押せ、押すたびに、ペイントしているような、水の音。OH!Yeah!!などの声などいろんな音がするソフト。遊んでいると言うよりも、時間を潰しているとしか見えないソフトだった。

おしゃれなデザイン雑誌では、「マックは道具であって、道具に振り回されてはいけない」などと、得意げに語る人間も、マックを使って有名になった人だった。

DTP(デスクトップパブリッシング)という言葉は、大手の研究所で謳われているような言葉のように受け取られていた。
今のようにパソコンでデザインを作成するなど、全くの夢物語だった。
マックを使っている人には、時代の最先端を走っているという自負を持っていたように思う。
買ったというだけで、時代に乗った気分でいる人がいたのも確かだった。
私はと言えば、そのマックに対する熱狂を横目に見ながら、オレは、触らなくてもいいや…。
まずは、仕事を覚えよう…。
そんなふうに思うようにしていた。
もともと、機械は好きだったし、絵を描くのも好きだった。しかし、壊してしまったら、責任の取り方がわからないという気持が強く働いた。

私が入社したデザイン事務所は、有限会社というカタチをとってはいたが、個人事業主的な会社で、社員教育も無く、デザインを行っても、「もうちょっとなんとかして。」という指示とも言えないぼやきでしかない言葉が返って来るだけだった。
そりゃ、人が辞める訳だ。

まだ、職人として、デザイナーの仕事が強く、背中を見て覚えろという風潮が強かったのか、あまりにも忙しく、教えることに力を注ぐことができなかったのか…。
おそらく両方だ。

自分の技を磨く事が大前提で仕事は回って行く。

綺麗な版下を作ることや、綺麗な線を引ける事がステータスだった。
腕のいいデザイナー。
腕のいい版下屋。
腕のいいクロマッチック屋。
腕のいい製版。
そういった人間で、デザインの仕事は成り立っていた。

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