2024年9月にみたテレビ
『有吉クイズ』9/1
生成AIに有吉毒舌アダ名を学習させたらQ。有吉がつけてきた芸能人のアダ名を学習させたChatGPTに、新たなアダ名を考えさせたりする企画。ChatGPTの考えたアダ名はイマイチなものが多かったけど、ウエストランド・井口が予想した自分のアダ名「光代の息子」が、往年の有吉の”アダ名芸”――アダ名という点と、その点が置かれた芸能界の座標軸を同時に描く感じ――を思い出させるもので、とても精度が高かった。
『水曜日のダウンタウン』9/4
ひょうろくキャラ作ってるんじゃないか説。YouTubeで過去のひょうろくの映像が引っ張り出され、それが今の感じとちょっと違うことがネットで話題に。この手のやつは、昔であれば小倉優子の地声が云々、今であればあのちゃんの地声が云々みたいに、ずっと同じところを回っている感じ。で、説はそういったネットの話題をひとまず入口にしているのだけれど、そんなあまりおもしろみのないキャラ作りの”疑惑”はVTRがはじまって数分で早々に処理して、その後は”疑惑”の拡散を逆手に取ったおもしろ(ひょうろくが裏では本当にヤバいやつだった、みたいなドッキリ)を模索しつつ、最終的に、出発点にあったネット上の”疑惑”とは位相の異なるひょうろくの”キャラ作りのうまさ”(ドッキリの仕掛け人としての演技の見事さ)に着地していて、その流れが美しい&おもしろかった。
『酒のツマミになる話』9/6
ゲストに三谷幸喜。千鳥・大悟をはじめとしたこの日の出演者にはどんな役が合いそうか三谷が言っていく時間があって、さや香・新山は官僚役が似合う、という見立てがとてもしっくりきた。にしても、映画のPRで定期的にバラエティ番組に出る三谷幸喜は、毎回この「どんな役が似合うか」を考える大喜利みたいなのを複数の番組でやらされている。三谷は毎回「この人に何をさせたらおもしろいか」を考えているが、三谷にこれをやらせる人は「三谷に何をさせたらおもしろいか」をあまり考えていない。
『有吉の夏休み2024』9/7
出演していたはずのフワちゃん全消去。消したことの痕跡すらもほとんど残さずに。ほんの数年前に宮迫やアンジャッシュ・渡部が画面から消えたときは、画質が極端に粗くなったり、不自然な画面分割が入ったり、ぶっとい横断幕みたいなテロップが入ったり、いかにも「消しました」という不自然な痕跡があった。が、今回のはとても自然。ただ消しただけではなく、消したことも消された感じ。”消去”というより”忘却”のほうが近い。
『秋山と映画』9/9
ゲストに映画『ぼくのお日さま』のPRで池松壮亮。映画がフィギュアスケートの話であることから、アイス競技の祭典NIC(New Ice Championship)が開かれることになり、アイスを食べながらダンスをする「NEWアイスダンス」や、凍ったホッケを食べる「NEWアイスホッケ」などの競技でロバート・秋山と池松が争っていた。SASUKEが五輪競技になるのだから、NEWアイスホッケの公式化もない話ではない。
『太田光のテレビの向こうで』9/14
関口宏と太田光の対話。2人は主にテレビ論を語り合っていておもしろかった。
トークの最終盤、太田はコロナ禍の東京五輪前の報道を振り返った。あのときは、テレビの報道・ワイドショーが五輪開催の是非を繰り返し話題にしていた。ただ、オリンピックがはじまったら、テレビは普通に中継した。「オリンピックはじまる前は五輪反対みたいな声が大きくて、いざはじまると五輪すばらしいになったんですよ」。太田は「テレビはじゃあどうすればよかったのかなって、俺いまだに思ってて」と語る。もちろん、太田には「どうすればよかったのか」の答えがあるわけではない。しかし、あのとき確かに「どうすればよかったのか」と問いがあったことを掘り起こし続ける。ジレンマがあった事実を”消去”しない。ましてや”忘却”しない。
一方、関口宏のスタンスは、テレビはあくまでも現象を淡々と伝えるメディアであるべきで、ひとつの方向に偏るべきではない、というもの。番組中、関口は太田の話を聞きながら、「そういう考えもあるかな」「そうだったかな」というように「○○かな」という言い回しで受けることが多かった。東京五輪の話を聞く際もそうだった。そんな聞き方、語り口がまさに、テレビは情報の仲介者にとどまるべきとする関口の考えと合致しつつ、何でも取り込むテレビのよく言えば懐の深さ、悪く言えば節操の無さを体現しているようで、それは太田が語る東京五輪前後のテレビの翻身と重なっているようで、なんだか興味深かった。
『くりぃむナンタラ』9/18
丸刈り芸人たちがいろんな競技で対戦する企画。丸刈りホッケーおもしろかった。おじさんがただただ頭を擦り付け合う時間。これも五輪競技に入れてほしい。
『私のバカせまい史』9/19
食いしん坊 古畑任三郎史。この番組で『古畑』を取り上げるのは、古畑の今泉へのパワハラ史に続いて二度目。そのときも今回も霜降り明星・せいやがプレゼンを担当していて、ドラマの場面のイラストにものまねでアテレコしていた。古畑のマネはもちろん似ているし、今泉のマネもちょっと似てるせいや。ドラマの映像を借りなくても大丈夫。TVer対応も完璧。
『やまコレ 山形を説明する』9/20
芸人の鈴木ジェロニモが出演した山形ローカルのNHKの単発番組。ジェロニモがYouTubeでやっている「水道水の味を説明する」とか「1円玉の重さを説明する」とかを、山形県のあれこれをお題にやっていた。山形の名産のさくらんぼを説明したり、そばを説明したり。で、ジェロニモの「説明」はもちろんおもしろかったのだけれど、その「説明」を聞くさくらんぼ農家のおばさんとその友だちとか、そば打ち職人とかの反応がとてもよかった。ジェロニモの「説明」に、「なんなのこれ…」という表情を隠さない感じ。いろんな地域でやってほしい。あるいは『のど自慢』のワンコーナーで開催地の名産を「説明」して会場全体に「なんなのこれ…」を漂わせてほしい。
『しくじり先生 俺みたいになるな!!』9/20
黒柳徹子が先生。出てきたエピソードは他所でも繰り返し話されてきたことなので、新鮮味は薄かったのだけれど、ピーター・フランクルが大道芸しながら徹子にキスしそうになる(してしまっている?)映像はみたことなかった。番組の性格上仕方ないのかもしれないけれど、あまりにも機械のようにカンペを読む徹子がちょっと心配になった。
『秋山ロケの地図』9/24
レギュラー放送最終回。いろんな人がいろんなことを地元でやっている、そんなことがよくわかる番組だった。コロナ禍に自宅の庭で焚き火をはじめたら徐々に近所の子どもたちが集まってきて、いまでは近くに住む親子の居場所になった、みたいなところに行っていたシーンがとても好き。あと、野良のSHAF(スーパーハード秋山ファン)の多さもよくわかる番組だった。
『虎に翼』9/27
最終回。見る側の「こうあってほしい」を最後までいろいろと裏切ったドラマでもあったなと思う。主人公の寅子を演じた伊藤沙莉が『あさイチ』(9/6)で『虎に翼』の好きなところとして、主人公に「駄目なところ」があることを挙げていたけれど(「駄目なところがひとつもない人を見てても全然おもしろくないなって思うから。人生のなかで何かをすべて解決していくとか、そういうことってあまりリアルじゃないなって思っていて」)、確かに、女性の社会進出を阻む制度や文化の壁にぶつかる寅子をはじめとした主人公たちを描きつつ、その寅子らは必ずしも「正しい」行動だけをとるわけではない。それは、社会問題に対峙する物語に「正しさ」を求めたい見る側の期待から外れていったと思う。かと思うと、その外れ方は、穂高先生のセレモニーで寅子が激怒するシーンのように、時に大きく振れて、「正しさばかりを押し付けられないから見ていて息苦しくない」的な、要は両論併記への安心感から「正しくなさ」を織り込んだ物語を好意的に受け止めていた層すらも突き放す。さらに最終週に近づくにつれ、むしろ主人公たちは真正面から「正しさ」を語り始めるようになる。あなたの定型文のような期待のために物語を紡がない、という意志を感じたドラマだった。
『内村プロデュース』9/28
『内村プロデュース』の復活スペシャル。最初から最後までとってもドライでよかった。「あのころの」をそれほど強調せずに、でもちゃんと「あのころの」をやる感じ。物語をあまり乗せずに芸人たちの悪ふざけに重心を置いてお送りする感じ。いや、もちろんたとえば『めちゃイケ』の復活スペシャルが放送されたとしたら、それはもう物語が盛り盛りでいいのだろうから、物語が乗ってること自体がいいとか悪いとかそういう話じゃない。『内P』とそういうエモさは反りが合わないという話。だからもちろん、番組側が空白のまま残した部分に見る側がわざわざエモさをわざわざ読み込む感じも手控えたいところ。