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合戦屏風

大河ドラマのおかげで、徳川家康公の周りは騒がしい。しかし、犬山城と私は普段通りだ。どちらかというと、来年初代正成が400回忌を迎える方が、大変だと思っている。
3月期末、長久手市で長久手合戦の講演があったので、私も参加した。席は全て予約一杯、今の興味の深さの度合いがわかった。その講演の冒頭、長久手合戦図は双曲で、もう1つが長篠合戦図だといわれ、その元は「成瀬家本である」と言われてしまった。私は自分のことを言われているような気がして、1人で照れてしまった。

この合戦図屏風は、私の人生に「犬山城」の次に大きな影響を与えた品だ。
まずは、財団設立にだ。国税庁からは、その時の個人所有では「城」と「屏風」の2つは、父の相続の時に残せない、ということであった。
またこの話がある前に、土蔵にある所蔵品の調査した。その折、協力してくれた京都の古美術商は私に「この屏風、億で買い取りますよ」と言われたこともあった。

私がこの屏風の実物に会ったのは、財団設立前であったが、この屏風の存在を知ったのは、私が高校1年の時だった。その時私は学校の林海学寮に参加していたと記憶する。
それは凄い発見として、メディアに取り上げられた。私の記憶の中では、新聞の1面を飾ったのは「犬山城の落雷」とこの「合戦図発見」と、記憶する。父は後から私にこっそりと教えてくれたが、どうも父はこの合戦図の存在を知っていたようだった。父にはこんな面白いところがあった。きっとこの時もこの方が面白いだろうと思ったから、その時知らないフリをしたに違いない。しかしこうした父のユーモアセンスが、時に伝わらず、誤解を招くことがたびたびであったことは、ここで告げておこう。

この合戦図屏風の持つ意味は、成瀬家の初代にまつわる人が、描かれていることにある。まず「長篠合戦図」は、初代正成の父 正一が馬妨柵の前に描かれているところだ。それから「長久手合戦図」は、本人の初代正成の初陣の馬上の姿と合戦中の姿が2ヶ所に描かれている。
私の中には、成瀬家ゆかりのものが描かれているにも関わらず、金銭を伴う売り買いをしたくないという考えを、もってきた。しかし事情があって今は公表できないが、売却を余儀なくされたこともあった。先祖の残してきた遺品。それを売ることは、歴史を売ることに感じられると、私は考えて来た。だから両方を残す選択はないかと、調べに調べて、財団設立の道を選んだ。その時の苦労はここで語るべきでないと考えるので、ここでは記録しない。しかしこのような並々ならない覚悟をもって、財団を創設したことは、皆様に知っておいてもらいたいのだ。

私にはもうひとつの願いがあった。それは、写真にあった正成初陣の時の鎧を、探すことであった。それは、かの長久手合戦で着たものである。長久手合戦の時、正成は一番首をあげたと言われている。しかし合戦が進むと、逆に正成は、敵の武将に命をとられそうになった。その命を救ったのが、家臣の鈴木彦左衛門。正成は、その時の感謝の気持ちを込めて、お互いの具足一式を交換しあったのだった。だから正成の具足一式は鈴木彦左衛門に、成瀬家には鈴木彦左衛門の着ていた具足一式が残り、今財団所有になっている。後に鈴木彦左衛門の家系は、成瀬家を助けるべく、直参の家臣として家老となり、家の柱となった。鈴木彦左衛門を「家の柱とせよ」と正成に命じたのは、なんと家康公自らだったと記録されている。

その鎧の話は、父から私は前に成瀬家に買い取ってくれと、鈴木家から話があったと聞かされていた。売りに出てしまったものを探索するのは、大変なことであった。だから財団の所蔵品の鑑定をお願いした刀剣商にも、協力をあおぎながら、探し続けた。しかしなかなか情報は入って来なかった。
そんな折り、私に大手銀行から講演の依頼があった。講演当日は淡々と時間が過ぎた。講演後に、感じのよさそうな婦人が1人ニコニコと近づいてきて、私に声をかけてきた。誰かなと最初は思った。話をしていくと、なんと彼女の家の先祖は、あの鈴木彦左衛門だというではないか。そして私の探していた鎧の写真を見せてくれた。
運命を感じた。400年近い成瀬家の歴史にも、感謝した。

彼女の話を聞くと、その鎧は今、千葉にあるらしい。鈴木家も代が替わり、そのために愛知から移動してしまったと聞く。大変だ。彼女の紹介で、今の持ち主に会いに、千葉に行った。何回かお会いして、ようやく展示に、お貸しいただいた。財団の職員の中には、貴重なものだから、買い取る話をした方がいいのではないか、いう意見もあった。しかしそれは違うと私は思った。正成の気持ちが消えてしまうとも思った。だからこの話に、私は最初から消極的であった。またあちらから、そういう考えが全く感じられなかったこともあった。展示の時にお会いした時、私は「もし、この鎧を博物館に預けたいと思われた時には、うちの財団も選択肢の1つとしてお加えいただけないか?」とだけ申し上げた。しかし、その私の気持ちを察してくださったのかのように、しばらくしたら、財団にその鎧一式を寄託してくださり、今はその当時を思わせるがのごとく、2つの鎧と屏風が同時に展示が出来るようになった。こうして、私の目標の1つを達成することが出来た。
今もその鈴木彦左衛門の末裔は、財団にご支援をしてくださっている。



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