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成瀬家の家紋

桜が散り、次は藤の季節だ。今年は暖かいせいか、GWまでもたなそうな勢いで、藤も咲いている。
成瀬家の家紋は、丸にかたばみとオーソドックスなものだ。しかし皆様、ご存じだろうか?実は家紋には、男紋と女紋があることを。辞書で調べると、男紋は外輪がある紋のことを言うらしく、女紋は外輪のないものを言うらしい。成瀬家の女紋は「枝下藤」、それも珍しい「二条藤」と呼ばれる紋だ。
祖母の残した着物の紋は「枝下藤」が多かった。また、財団に残る8代目の一人娘の富女の日用道具には、この男紋と女紋の「二条藤」が付いている。
私もこれに習って、私用に作った茶道具は、この「丸にかたばみ」と「二条藤」の紋の2つを付けて作っている。
しかし「二条藤」は、オーソドックスな形でないので、オリジナルで作らなければ出来ない。だから、当然ながら使用するとお金がかかるのだ。何でもと使うという訳にはいかない。
しかしこの「二条藤」は、女性だけが付けただけでなく、男性の陣羽織にもこの「二条藤」が付いているものもある。昔は全てがオーダー性だったから、私のような苦労はなかったのかもしれない。

なぜ、成瀬家の家紋は「二条藤」なのか?それは成瀬家が、南北朝時代、関白であった二条良基の流れをくむ家だと、いわれているからであろう。成瀬家にはその二条良基は、南北朝時代一時北朝側にいた時に、正平一統にあい、京の都を追放されたと言われている。その時、足助の里に流れ着いて、足助次郎の娘である滝野との間に子をなし、その子供が成瀬家の祖である基久で、そこから始まる家だと、伝わっているからだ。しかし、なんと二条良基は歴史を調べると、足助に来た記録がない。だから、成瀬家が、本当に二条良基の流れをくむ家なのかどうか、私は不安を感じる。その話しは、600年位前の鎌倉時代の末期か室町時代である、南北朝時代にさかのぼる話しになるから、今は確認のしようもない。昔は、こんなことが多くあったようだ。また、お金で系譜も買っていたとも聞く。まったく困ったことだ。
二条良基という人物は、政治家だけでなく、連歌の達人の文人であったようだ。有名なところでは、連歌の「つくば集」20巻を撰したことで知られている。今、連歌はメジャーではない。寂しいことだ。しかし連歌は難しい。する人が少ないのも、納得だ。
私の父も祖父も、文人であった。この良基の流れから、文人になったと私は信じたい。しかしその才能は、私に受け継がれていないようだが。
ちなみにこの歴史が正しいと、成瀬家は徳川家より古いらしい。

成瀬家が、三河、足助の出身であることは本当みたいだ。足助にある香嵐渓の宝積寺には、成瀬家の先祖の墓が今も残っていて、基久の墓もその中にある。また宝積寺のことは、江戸時代の成瀬家の文書の中にも、記録が残っている。宝積寺は今もみじで有名だが、このもみじは二代正虎の生きている時代に、植えられたものから始まっているらしいので、歴代の城主達も、このもみじを見ながら、墓参りのついでに紅葉狩りを楽しんだかもしれないと思うと、また香嵐渓のもみじが、違って見えるように思えるのではないだろうか。
江戸時代後期からお家窯として発展した犬山焼に、桜ともみじの雲錦模様を用いたのは、もしかしたら、日本を代表するものを柄に使いたいという歴代の思い入れがあったから、そうなったのかもしれないと思うと、合点がいく。

初代正成の出身は、岡崎の六名町と言われているから、足助ではない。足助にはいつまでいたのだろうか?そう思うと、歴史とはロマンを感じるものだ。

とにかく、家紋にも歴史があると、私は考える。皆様にご理解いただけたであろうか?各家の家紋には、きちんと意味があってついているのだ。皆様も家の歴史を調べる時には、家紋にも注目しては、いかがだろうか?と私は思う。

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