SCOOL2記録_181118_0165

【講演記録】第2回「主観性の蠢きとその宿――呪いの多重的配置を起動させる抽象的な装置としての音/身体/写生」(Part5)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使する(ための)レイアウト(試読用)

③主観性(Subjectivity)と物性(Objectivity)

a.時枝文法(言語過程説/主体・素材・場面/詞・辞)
山本 以上のような前提を大まかに踏まえた上で、今回は、その後考えた様々な事象も食い込ませ、大きめの理論としてかたちづくっていきたいと思います。
 先ほど見たラネカーをはじめとする、言語学での議論では、どうしても単文に話が集中してしまい、複文になった途端に危うくなってしまう。ある文だけを読めばAだと思えていたものが、小説や詩歌のなかでは、まったく異なる質感をもったBをあらわすものとして読めてしまうということが、平然とありうる。つまり、文だけでなく、そのレイアウトたるテクストも含めて、扱える理論が必要です。
 また、この文章は文法的にありうるけれど、この文章は文法的にありえない、というように事前に研究者が自らの思う常識に基づいて事例を選別し、そこに基づいて議論を進めてしまうという問題も、言語学にはある。もちろんそれは個人的な判断に還元されるものではなく、様々な人々によってある程度たしかに共有されるものだというのは、学問における主張として当然確保されているでしょう。しかし、それだと、文法から逸脱した表現が例外として排除されてしまう。文法から逸脱していたとしても何かしらの異様なイメージを立ち上げたりするし、あるいはイメージを立ち上げないことによる表現だってありうるのに。これだと、どうしても、表現の現場に使えるようなものにはそのままではなりづらい。
 こういった問題を、なんとか乗り越えられるような理論の土台を、詩歌の事例・議論を参照しつつ、小説にまで到れるようなかたちで、手作りしていかなければならない。
 繰り返せば、当然それはのちのち修正が加えられる必要のあるものでしかないでしょう。ただ、大枠を現時点で示すことによって、はじめて進めるようになる場所も、見えてくる課題も、使用できるようになる過去の蓄積も、多くあるはずなのです。

 まず、参照項をひとり置きます。国語学者の時枝誠記(1900-1967)です。
 吉本隆明や藤井貞和など、多くの日本の論者が自らの言語理論を構築する上で参照しているひとで、ソシュール批判を一貫して展開したことでも有名です。
 時枝は、『国語学原論』やその続篇などの著作で、言語を常に表現または理解の実践過程として捉える「言語過程説」を主張しました。続篇の方で、「言語過程説」の大まかな要点をまとめてくれているので、いくつか抜粋して引用します。

・言語は思想の表現であり、また、理解である。思想の表現過程および理解過程そのものが、言語である。
・言語は、表現の場合には、理解主体(聞手、読手)を予想し、理解の場合には、表現主体(話手、書手)を前提とする行為である。独白は、話手が同時に聞手となる特別の場合である。
・言語を行為し、実践する立場を、主体的立場といい、言語を観察し研究する立場を、観察的立場というならば、言語を研究するということは、言語を行為し実践する主体的立場を観察することに他ならない。

時枝誠記『国語学原論 続篇』、岩波文庫、2008年、18-20頁(初出1955年刊)

 言語の根幹を、言葉と物の辞書的な一対一関係などに見るのではなく、それを行為し実践する過程にこそ見るというスタンスは、先程のラネカーの議論とも近いものでしょう。
「表現主体+環境」の埋め込みについて、時枝はどのように考えているのか。正篇の方からさらに引きます。

若し意味というものを、音声によって喚起せられる内容的なものと考える限り、それは言語研究の埒外である。しかしながら、意味はその様な内容的な素材的なものではなくして、素材に対する言語主体の把握の仕方であると私は考える。言語は、写真が物をそのまま写す様に、素材をそのまま表現するのでなく、素材に対する言語主体の把握の仕方を表現し、それによって聴手に素材を喚起させようとするのである。絵画の表そうとする処のものも同様に素材そのものでなく、素材に対する画家の把握の仕方である。意味の本質は、実にこれら素材に対する把握の仕方即ち客体に対する主体の意味作用そのものでなければならないのである。

時枝誠記『国語学原論』下、岩波文庫、2007年、110-111頁(初出1941年刊)

 言語表現は、具体的に身体をもって様々な場所を歩きまわる「いぬ」や「ねこ」を、そのまま扱う表現ではない。いぬやねこを知覚しそれを表現しようとする私こそを扱うものである。そんな考え方が、はっきりと示されています。
 こうした言語観のもとで、日本語を詳細に考えていった時枝の理論を手がかりに、オリジナルな体系を作り出していきたい。

 さっそくですが、時枝文法の軸となる、2つのパースペクティヴを見ていきましょう。
 ひとつめは、「主体・素材・場面」です。
 時枝いわく、《言語の存在条件》は、《一 主体(話手)、二 場面(聴手及びその他を含めて)、三 素材の三者を挙げることが出来る》。《言語は、誰(主体)かが、誰(場面)かに、何物(素材)かについて語ることによって成立するものである》。
 まず「主体」とは、その名の通り、ある言語表現があったとして、それを表現した者を指す。「ねこがねずみを食べる」というとき、そこでの主体は、「ねずみを食べる」主体ではなく、あくまで、「ねこがねずみを食べる」と表現した主体として考えられなければならない。同様に、「私は読んだ」と言うときにも、この「私」は、あくまで主体が客体として表現されたものであり、主体そのものではない。
 次に、「素材」。これは、時枝いわく、《言語によって理解せられる表象、概念、事物》を指します。いわば、表現される内容ですね。ただ、時枝においては、言語とは対象そのものを表現するものではなく、素材に対して表現する主体こそを表現するものですから、《主体によって、就いて語られる素材であって、言語を構成する内部的な要素と見ることは出来ない》とされる。《言語に於ける本質的なものは、概念ではなくして、主体の概念作用にある》、と。また、その点で、素材は、いぬやねこのような、物理的な対象だけに限られない。《具体的な個物であっても、心理的な概念であっても、言語主体によって、用言の素材として把握された以上、主体に対立したものと考えなくてはならない。》そのような、主体と対立する「表現されたもの」を、素材と呼びます。
 そして、おそらく問題になってくるのが、最後の「場面」です。これは、具体例から入るのがわかりやすい。時枝が《最も具体的な場面》として挙げるのは、聞き手です。表現は、それを向ける相手によって、形を変える。友だちなら、「今日めっちゃさむいねー」と言うかもしれないけれど、先生や偉い人だったら、「今日はとても寒いですね」と言ったりする。このように、表現主体とそれによる表現を規定するもの、包み込んで変形させるものとして、場面は考えられる。先ほどから、世界や環境などと呼んできたものに近いです。そして、たとえば「あなた」「きみ」のような二人称代名詞は、聞き手=場面が素材化されたものだとされます。
 以上、言語を構成する3つの要素「主体・素材・場面」を、時枝は次のような図にまとめます。

出典:時枝誠記『国語学原論』上、岩波文庫、2007年、61頁(初出1941年刊)

 Aが主体で、CDで描かれた弧が「事物情景」、いわば素材群です。そしてBは、主体Aが、CDすなわち事物情景=素材群に対してとる志向作用を表すとされます。Aが、CDを、Bのように捉え、表現する。
 問題は、時枝がこの図のなかで、場面をBとCDの融合したものとして考えているということです。主体と素材のあいだをつなぐものとして場面があるというよりは、その同居、《主客の融合した世界》としてあると言うわけです。《車馬の往来の劇しい道路を歩いているときは、我々はこれらの客観的世界と、それに対する或る緊張と興奮との融合した世界即ちこの様な場面の中に我々は歩行して居るのである》。先ほどエルンスト・マッハの図とともに触れた、環境知覚と自己知覚の同居という問題と、近いものだと言えるかもしれません。
 さて、このように語られる「主体・素材・場面」は、じゃあ単語のレベルでどのように生じたり操作されたりするのか。時枝文法におけるもうひとつ重要な軸となる、「詞・辞」について見ていきます。

つづく

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