20181025-11月号

新聞家さんとのイベントに向けたメモ② 『現代詩手帖』掲載対談についてB

承前)(文責・山本)

☆あなたしか見たことのない語の跳躍にはついていけない
対談相手のカニエ氏が《ここ一、二年のうちに刊行されたものに絞》って選んだ詩集は以下の十冊である。

マーサ・ナカムラ『狸の匣』
野崎有以『長崎まで』
岡本啓『絶景ノート』
暁方ミセイ『魔法の丘』
尾久守侑『国境とJK』
山田亮太『オバマ・グーグル』
萩野なつみ『遠葬』
柴田聡子『さばーく』
鈴木一平『灰と家』
河野聡子『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』

 村社氏による詩への批判をざっくり並べると、以下のようになる。

①語が活躍していない
②改行等によってもたらされる空白の意味がわからない
③あえて《マイノリティ》な語を《動員》するなど書き手が前面に出すぎている
④語の「出自」が曖昧化されている
⑤像を結ばないことがストレスである
⑥音を理由に言葉を選んでいる

 基本的には、すべて、①の「語が活躍していない」に集約されるものだろう。
 村社氏いわく、カニエ氏が挙げた10冊について、《マーサさん、野崎さん》の《二冊は面白く読》んだが《他は、どうも読めないという気持ちになるものが多》かったという。《責任がこちらに投げられっぱなしというか、「あなたしか見たことのない語の跳躍にはついていけない」という気持ちになる。語の、そのときしか出せなかった跳躍の記録と言っていいと思うのですが、語がある日飛べた距離って語とほとんど関係ないと思うんですよね。》
 村社氏による批判は、この「あなたしか見たことのない語の跳躍にはついていけない」という認識に貫かれている。たとえば《詩人の改行、空白は、個人的すぎるというか、何に要請されて生じているのかよくわから》ず、《詩人の呼吸は、わからなくするため、難しくするためにしていますよねって思う(笑)。》一方、自身のテクストにおいて生じる空白は、自動化された表現の切り詰めに伴う必然的なものであり、それは語の活躍に繋がるという。
 詩は《語を選び取ってくる主体がすごく目立つ。あるいは主体が目立つことを避けたくて、選び取るソース自体を霧散させているように見える。ソース自体が見えないように工夫されてい》るという。ここで言われる「ソース」は語の「出自」を指す。村社氏としては、マーサと野崎の詩集や、岡本の一部の詩は、物語や現実といった《描写する何か》《書く行為のモチベーション》などが村社氏にも共有され、《読みやすかった》という。また、山田の詩集に関しても、《サンプリング》というかたちでソースの問題と関わっているため楽しめたと言われる。


☆「出自」について
出自」という概念をめぐっては、村社氏は「語の活躍」と絡めて説明している。例に挙げられているのは、萩野なつみ『遠葬』のなかの一節《おまえのうつくしい帆がすべってゆく》である。

村社 〔…〕たとえば「すべってゆく」が指し示そうとする動体に対して、どの語を使うほうが「近い」か、たとえ明言できなくても、票を集める語って少なからずあると思うんです。マイノリティな語が動員されていて、どうして我々がそれに気がつかないといけないのか、なぜそれが試されるのかがわからない。船が水面を滑るというのは国語表現として可能ですが、帆は「滑らない」。帆が動く、横にずれると言うときに、船が動いている事実が想像される。船が海の上を滑ると言えば、帆が動くことを想像できる。なのにどうしてハイブリッドにする必要があるのか。自分の稽古場に引きつけて言うと、そういう言い方になりますね。
カニエ 前の行が「改行を繰り返しながら」ですからね。原稿用紙なのかパソコンの画面かもしれないけど、ちょっと複雑なことが起きていて。詩を書いているぼくからしたら、この「帆」はけっこう活躍できているように見えるんですが(笑)。前の行があることによって書記の行為と水を滑っていく行為が重ねられている。とすると横書きなのかなと思いますが、書く行為と航海が二重写しになっていて、この二行だけでも複雑なイメージが生まれている感じがします。遡ると「改行」もその次の「過程」も帆が滑っているのと文字を書いていくのが重ねられている「過程」なので、だとしたら、この語も活躍しているんじゃないかと。
村社 それぞれの語は、片方の写し出身で、それぞれの語は、出身じゃないほうの写しにおいては、かなり無理をしている。「過程」とありますが、帆の単純な動きとか文字を書くときのものの五分のことを「過程」とは呼ばない。だとしたら、どっちの出身でもないわけです。二重写しをつくるためには曖昧な語が必要なのかもしれないけど、語の出自が正確じゃないことがとても気になる。活躍っていうのは、そういう意味もあります。じゃあ「過程」の出自がどこにあるのかということは、この詩の中で伝えていない。私は書くときに、その出自しか前提にしていない。「過程」という言葉がどこに出自を持っているかは説明できると思うんです。ソースが存在するのであれば、なぜそのソースに見合わない語がどうしてわざわざ遠くから選び取られるのか、その説明がされていない。

 ある場所に語が置かれたとき、なぜそこにその語が置かれたのかについての情報が、「出自」という言葉によって言い表されている。そしてそうした「出自」が、詩においては、《マイノリティな語》の使用によって、隠されたり、あるいは言葉のマイノリティな使用を行った主体自身を強く表出させるような試みがなされており、それは自分の、「語」を活躍させるスタイルには反する、と。
 注目しておくべきは、村社氏自身が言うところの(詩に対する)《「貧しい読み方」》である《「語が活躍していない批判」》と、語の「出自」が個人的かつマイノリティ的なものではなく《共感できるものとして私たちに馴到されている》かどうかに関する批判が、重ねられているということである。テキストが書き手から離れて自活し、すべての語が平等に「活躍」し、「書く」行為が最大化されるためには、語の「出自」が、語それ自体において明晰にあらわになるようなテキストとならなければならない、とされるのである。そこで表現主体が一種のブラックボックスとして生じ、語がそこに置かれた必然性を隠してしまったりしてはいけないのだ。

☆「マイノリティ」とはなにか?

 なるほど確かに、詩というジャンルにおいて発表される作品のなかには、わかりやすい対象を扱っているはずなのに、あえて迂遠な言い回しをし、その迂遠さをもって書き手自身の詩的豊かさとして自ら肯定しているだけの作品も、かなりの数あるだろう。曖昧さや迂回が無意味に採用され、明晰さがただただ失われていく状態は、相応の必然性が無い限りは徹底して避けられるべきだし、あるいはすべての語をめぐって「なぜそこにそれが置かれているのか」を必然化していく過程も、詩の制作において当然必須であると言えるだろう(そこで語の「平等」を目指すべきかという点に関しては、別途熟慮すべきところがあるはずだが)。その点では、村社氏による批判には一定程度同意する。
 その上で、しかし、村社氏が詩を批判する際に用いる《マイノリティな語》という表現に関しては、おそらく一般には用いられない言葉遣いかどうかという程度の意味合いだろうと思われるものの、かなり驚かざるを得ない。これは、《日本語を母語として生きてきた人間》である限りは《確かにそこにとらなければならない意味があることはわかる》という(前回まとめた)村社氏の発言とも共通したところがあるだろう。
 たとえば萩野なつみ氏の作品をめぐる議論の中で、村社氏は、《帆は「すべらない」》と言うが、なぜそう言い切れるのだろうか。船が滑ることで船に付随する帆もまた視覚的像としては滑っていると表現することは十分に可能であるし、それを《帆がすべってゆく》と表現することで生じる「風を受ける広い面」というイメージは、《帆は「すべらない」》などといった批判で無化できるようなものではないだろう。《帆がすべってゆく》が表現する情報と、《船がすべってゆく》が表現する情報には、はっきりとした差異があるし、そもそも《帆がすべってゆく》は、《マイノリティ》などではなく、むしろ逆にありふれた表現としてすらあるのではないか、と私には感じられる(むしろその点で、私は萩野氏のこの一節をそこまで高くは評価しない。日本語話者などといった大仰な主体ではなく、あくまで私個人のささやかな感覚として、だが)。
 また、カニエ氏が村社氏に応答して言うように、《おまえのうつくしい帆がすべってゆく》の手前には《改行を繰り返しながら》とあり、そことの喩的連関が想定されているのはほぼ自明であるとさえ言えるだろう。
 にもかかわらず、村社氏は、《おまえのうつくしい帆がすべってゆく》を《マイノリティ》と呼んだり、あるいは《帆の単純な動きとか文字を書くときのものの五分のことを「過程」とは呼ばない》などと断言したりしたうえで、《責任がこちらに投げられっぱなしというか、「あなたしか見たことのない語の跳躍にはついていけない」という気持ちになる》と口にする。そこからは、どの語がマイノリティでどの語がマイノリティでないかを、どんなときにも客観的に判断する能力・権限を村社氏自身が持っている、というような無自覚な認識を、どこかに感じざるを得ない。
 それは、何が日本語話者にとって「正しい表現」であるかを特権的に判定しようとする言語学者のふるまいに近いとも言えるだろうし(言語学の知見はそうした無自覚な断言を内部に孕んでいるがゆえにそれ単独では詩歌や小説の営みにうまく寄与できない。詩歌や小説は、何が「正しい表現」であるかという基準そのものを内部で制作するものとしてあるはずだ)、ともすれば、どの語が許可されどの語が禁止されるか、誰が多数派・正統派で誰が異端かを厳然と振り分ける差別主義者の見た目に近づかないか(当然村社氏の意志とは無関係に)、という危惧を、こちらとしては強く持ってしまう。
 少なくとも私は、ものの五分のことであったら「過程」と表現しえない、などとは断言できない、と自らに感じる。言い換えれば、ものの五分のことに対して「過程」と表現されるに足るなにかを知覚することは決して禁止されえないし、そのようなかたちで「過程」と口にすることを検閲される余地は私らには微塵も存在しない。ただあるのは――これもまた村社氏自身が《その主体が自らの知覚についてどう考えたか》について書くという言い方で言及していたように――五分と書き記された瞬間創造されざるをえない「その時間を「過程」として知覚したものの情報」をいかように操作し配置していくかという事態だけである。《帆の単純な動きとか文字を書くときのものの五分のことを「過程」とは呼ばない》という言い方で、「過程」と表現する可能性を安易に排除する(ような物言いをなんの抵抗もなくしてしまう)ことそのものが、一種の無自覚な弾圧となりかねない。そしてその先にあるのは、的確な批判による相互発達などではなく、単なる批判者の権力誇示や、立っているポジションの違いの強調などに、貧しく収束してしまう危険性である。

☆権力をいかに避けるべきか?
 当然言語というものは、自他とのあいだのコミュニケーションをめぐる機能が一定程度備わっている媒体であるがゆえに、ある程度の意味共有が前提とならざるをえないところはあるだろう。これは辞書的に言えてこれは辞書的に言えない、といった判定の身振りは、たとえばGoogleで検索すればすぐに「Yahoo!知恵袋」のページなどで見かけることができる。
 またそこまでいかずとも、そもそも演劇のような場で、複数人でひとつのテキストに向かい合って共同制作するためには、そうした意味共有が一定程度必須となってくるところはあるはずだ。村社氏が語の「出自」を重視していることも、そうした共同制作をめぐる必要性に由来するところが大きいのではないか(ちなみに村社氏は、前回まとめたように、語が活躍していないテキストを演出に用いた場合、そこに《どっちでもいい部分》が生じてしまうために演出時に《嘘が入り込む》、それは演出を演出家の権威の発露にするだろう、といった趣旨の発言をしている。これは彼による詩への批判と重なっているところがあるだろう)。
 しかしそれでも、何が多数派で何が少数派なのか、また少数派であると判断した自分がなにかを大きく見落としている可能性などについては、どこまでも確実な判断は難しい(誰であったとしても)。そしてその上で、限界まで分析理論を自身において細密化し、それを複数人と共有し、ひたすらに検分を経ていくことではじめて、なにかを書くということが複数人によって成立すると考えるべきだろう。
 こうした事柄は、村社氏の提示する理論においても当然重視されているところであるはずだ。にもかかわらず、安易に他者の表現を判定できると設定し、その延長線上で、他でもない「他者」を主題にしようとする自らの理論の骨格を語ってしまう危うさに、どうしても引っかかってしまう。これは後述するように、村社氏自身が特権的な立ち位置でもって、読みが至らない観客を教育し、その過程において生じるものを「他者」と呼ぶという形式をとっているからこそ、なおさら、というところでもある。
 なぜ一方では「他者を汲み取る責任」と言いながら、その「他者」を代表するテクストの位置に、おのれが書いたものを疑いなく置き、しかもそのテクストを最大限理解している者の位置にまで、おのれを設定してしまうのか。「日本語話者なら共有するはず」とされる語の「出自」や「意味」や「活躍」の判定基準をおのれが十全に保持していると信じ、他者による表現をマイノリティかそうでないか判断してしまえるのか。
 たとえ《私はテキストの書き手だけど、テクストのすべてを知ってはいない》と、あるいみ政治的に正しく言ったとしても、大枠の設定の時点で、テクスト=書き手=村社氏という構図に陥ることを避けきれておらず、結果として村社氏と彼の書くテクストが、疑いようのない一種の「聖典」として機能してしまい、それに触れる役者や観客は村社氏の教えをききながら「聖典」に真摯に向き合うことだけが求められるという事態が生じているのではないか。そこであらわれるのは、《物言わぬ他者》ではなく、一人の君主であり、権力である。そうした特権的人物が(言語の使用をめぐる慣習的ネットワークや人間という種の身体といった「日本語話者なら共有している」と考えられている虚構の共同性を、書き手という自らの持つ特権的位置を押し隠すための隠れ蓑にしながら)《「意味をとってください」》「《日本語を母語として生きてきた人間》ならわかるはず」「この語は《マイノリティ》だ」などと彼の中にある判断基準に応じて強力に言い放つのに対して、観客らは、自らの内部にもあるかもしれない「日本語」という規範性が表す漠然とした権威を見て取り、それに対してひざまずくしかない。それができない観客らはみな、「日本語話者なら共有できる」「国語表現」という判定から外れた「非国民」として疎外されるほかない。

 実際にそのような事態が新聞家の上演において行われていると言いたいわけでは当然ない。そうした事態に陥らないような意識を随所で感じることも確かにある。ただ、全体の理論やシステム、村社氏の詩への発言を聞き、整理すると、現状ではそのような事態が避けられていないと強く感じざるを得ない。
 これもまた後述するように、曖昧さや迂遠さを無駄に掲揚するものらへの嫌悪や、書き手の思考をたやすく排除したテクスト論への違和感など、乗り越えるべきと感じている対象については、おそらく私と村社氏のあいだで共有しているところは多いのではないかと感じる。「出自」や「語の活躍」という言い方で考えられようとしているところにも、個人的に興味深いところは多い。それゆえにこそ、なぜそこで無防備になってしまうのか、そんなふうに言ってしまってはなにもかもがひっくりかえってしまうのではないか、と戸惑うこともまた多いのである。
 本心としては、こうした批判に時間を費やすよりも、村社氏の他のエッセイや作品テクストの分析のほうに進みたいのだが、しかし私への批判箇所も含め、もうすこし『現代詩手帖』対談での発言を検討しておかなければならない。

つづく

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