見出し画像

イベント「新聞家 VS いぬのせなか座」後記③

承前)(文責:山本+h)

h 村社さんが、演者に「意味をとってください」みたいなことを言うわけでしょう。でも、村社さんが本当に取らせたいのは、「意味」とかじゃなくて、いま話しているような、テクストの構造のことなのかな。
 たとえば、ここはこういう連関がある、みたいな。それとも、本当に語の辞書的な「意味」なの?

山本 村社さんは、今回のイベントをきっかけにして、「意味」ではなく「語り手」って言葉を使うことにしたって言ってたよね。それまでずっと重視していたのは、辞書的な「意味」というよりも、テクストの配置によって立ち上がるフィクショナルな表現主体の問題だったわけだ。

 でも、そういう考え方で稽古をするというとき、書き手であるからテクストに関わりきれないというか、関わりきっちゃいけないみたいなブレーキも生じたりするわけじゃない。イベントで話されていた、「ぼくにもう聞かないでください」みたいな(笑)。ただ、テクストの読解をただただ役者の人に求めるというのはたぶんきつい。役者の人は、批評家でもなければ、文章を専門的にたくさん書いているわけでもないから。
 そして、同時に、村社さんは、役者として舞台にあがるわけではないし、そもそも書き手であるぶん、知らないテクストを差し出された演者の側にはなりきれない。だったら、村社さんは、役者がやるべきテクストの細かい分析をきちんと自分でやるというか、このテクストのこの部分は自分としてはこういう意義で書かれていると思うとか、ここが一番書きたかった部分だとか、そういうことを伝えてもいいんじゃないかと思う。そういう意味で、もっとファシスト的にやっていいのではないかなと思う。

山本 そういうかたちをよりはっきりと受け入れてもいいんじゃないかっていう話だよね。

 そう。というか、その方がおもしろくない? 役者に任せるってそんなにいいことなのかな? もちろん役者の人はとても大事なんだよ。でも、役者が本気でやるくらい演出側も本気でやらないと……書き手が黙っていた結果、役者の人が辞書的な「意味」のところでとどまってしまっていたら、意味がない。だから、自分はこう書き、ここに文を置いたという「意義」のところまで伝えてしまうべきというか、まあ難しい問題だけど……。

山本 それをより推し進めれば、ファシスト的な中心みたいなものが複数あるという感じがあると思う。ぼくも書き手だしあなたも書き手だしあなたも書き手、というなかでの拮抗関係というか。要するに、「わたしはこういうふうに書いた」に対して「え? それならこういうふうな書き方をしたほうが良くない?」と返せるような、そういう強い中心を自分とは別にもうひとつ隣に置いてしまうという路線しかないんじゃないかなって、やっぱり経験上は、思う。
 書き手が自分の書いたものをしっかり言語化して語ろうとすることで生まれることは、確実にある。だから書き手もまた自らを批評すべき。ただそれは同時に、権力関係を生む可能性もあるので、どこかで崩されるべきではあるかもしれない。書き手によって発せられた言葉を特権化すると、覆せない中心みたいになってしまうから。
 しかし、中心を崩すということを、書き手が黙るというかたちで実現してしまうと、それは危うい。また話がもどってしまって、結局ブラックボックス化するから。必死に書いた人間がおのれの考えたこと、考えうることを可能な限り話して、相手も話して、複数人で書くことを議論するところまでいったら、新聞家がやろうとしていること、あるいは村社さんの求めている他者みたいなものは、実現されうるんじゃないかな。それ以外にも当然方法はたくさんあるはずだけれども。

 そのときに、キャラクター性は嫌だって言うでしょう。それはどういうこと?「役」みたいなのを立ち上げたくないという。

山本 先取りされた同一性みたいなものがテクストから離れたところで持ち込まれるとだめだ、と言うよね。なぜそれをそこまで避けるのか、っていうこと?

 そう。だってそこに役者がひとりいる時点で、村社さんが言うような、主体の持続みたいなものは担保されてしまう。村社さんのテクストのなかの、わたしがピンクにしたところで生まれている「主体はひとりだ!」という感じの認識って、人がひとり実際にそこにいるってだけで、成り立ってしまう。村社さんのテクストに主体が一人しかいないというのは、演じられる前提で書かれているからなのかなと思った。あとからね。
 だったら、主体の持続みたいな、つまり役、キャラクター、みたいなものを避けたいなら、どうして今回の『失恋』みたいに、こんなにひとりの視点で書くんだろう、と思う。

山本 そうなるように書いちゃってんじゃんってこと?

 そうそう。それが別に悪いわけではないし、役者とテクストの語り手の一致が生まれるかどうかのギリギリのところをやるって話はあったわけだけれど……そしてギリギリにするためにはやっぱりひとりの人みたいなものを仮想的に立ち上げなきゃいけないのかもしれない……演劇ってその性質上、そこにひとりの人が立ってて話していたら、そのひとの話としてしか読めない。もちろん『失恋』では、ふたりの人が同じテクストを読むってことに意味があって、それが、主体が一人であるってことを確実なものにすることを避ける手段なのかもしれないのだけれどね。

山本 そういう、テクストをめぐる主体の具体的複数化や空間的配置とかができるのが演劇だっていう話だとは思う。たとえばベケットとかはそういうことをすごく考えていたし、最近のもので言えば、地点『グッド・バイ』は太宰治のテクストを複数役者によって分散的に発話することによって、太宰治という個人の内部に具体的な隔たりを強く設計していた(ひとつの言葉は役者間で反復され異なる感情を付与され、「ぼく太宰!」と言われたあと発せられる別の役者の発話は、ふたりの役者をひとりの魂のなかに帰属させる。空間現代による音楽は、役者の発話のタイミングを左右するかたちでひとつの従属先となる。ある個の魂の内的構造が、複数の役者、音によって、舞台上に空間化されていく)。
 あるいは三野新さんの『アフターフィルム:performance』は、映像作品をもとにした上演だけれど、役者がスマートフォンを見ながら発話することによって、役者が抱え持つ役柄=魂が、スマートフォンへの従属というかたちで外在化させられていた(つまり発せられた声を束ねる能動的主体が役者の身体においてうまく生じない。役者はただ自分の外にあるテクストに従属しているだけである、ということになる。こうした身体のテクストへの従属関係については、アルトーが考えていたことでもある。熊木淳『アントナン・アルトー 自我の変様――〈思考の不可能性〉から〈詩への反抗〉へ』など参照。ちなみに映像作品『アフターフィルム』それ自体が、そういう魂の外在化や魂の発見の問題を扱っていた。アフタートークをしたとき話したことをまとめたツイートはこちらから)。
 そして村社さんも、たとえば『白む』という作品だと、ふたつの時空間における、十数人の人々の関係性を、3人の役者・役柄による発話を通して浮かび上がらせるというかたちで、演劇だからこそできるテクストの空間的展開可能性を、おそらくあえて慎ましくだけれども、考えていると思う。
 単純なことを言えば、書き言葉としてのテクストは、テクスト内部で様々に複雑なことはできるけれども、語り手をテクスト外部において複数に具現化する、ということが、少なくとも直接的には、できない。語り手が常に失われた状態で読まれるしかない。一方、上演台本においては、それが実際に役者の身体や舞台によって、具体化・空間化されることが前提とされる。そこが重要なわけよね。たとえば『失恋』において二人の役者がテクストを声として発するのは、テクストをどうやって複数人で使用・展開するか、そしてその段階でいかに主体を具体的に複数化するか(さらにはその先にどういう同一化があるか)ってことが模索されている。テクスト内部で語り手を複数化するのではなく、模索の段階というかテクストの使用の段階で複数化することを、考える。
 その意味で、確かにテクストがあえて激しい運動を生じさせるものとしてではなく、比較的安定した一人の視点のもとで書かれる、ということの意義はあると思う。それによって、起こる事柄がかなり明確になるだろうし、観客側とのあいだで生じる「役柄」や「語り手」のようなフィクショナルな単位が、扱いやすくなる。もしテクストが複雑すぎれば、負荷が大きすぎて観客側の、いわば想像力のようなものが、使用不可能になってしまうかもしれない。

 うん。そうね。

山本 と同時に、ぼくは過剰さを求めがちな人間として、テクストそのものもまた激しい運動を起こしているという事態をあえて考えてみたくなる。たとえばそれこそ、詩を、単に線的に朗読するのではなく、その制作過程で生じていた思考をまさにそのままに上演する、とはどういうことなのか、それはありうるのか、知りたい。
 明らかに詩の文章、特に優れた改行詩のそれにおいては、一人の語り手みたいな存在は、改行や音の配置などによってぼこぼこのぐしゃぐしゃにされている。ずたずたなのよ。可能な限り、ひとつの必然性が安定した中心として立ち上がらないようにされている。もちろん、それは単にばらばらで曖昧というわけではない。行ごととかに、〈書き手〉が複数相容れないままに存在し、それらのあいだで抽象的な空間を構築していることがある。そういうテクストの上演を考えるとき、たぶんひとりの役者が声として読み上げるだけでは、さっき言ったように負荷が大きすぎたり、本来なら演劇という形式において豊かに実行可能な手段らが、禁じられてしまったりして、結果、なかなかうまくいかない(シンプルであるぶん問題点ははっきりするかもしれないけれど)。ゆえに、詩の上演のためには、その手法を新たに探す必要がある。その先に、物語とかイメージをテクストからいったん抽出した上でそれを演劇形式に移して上演する、とかではない、詩における思考そのものの上演、というものがありうるのではないか。
 そういった上演がそもそもこの世界に存在しうるのかどうかは、まだわからない。でも、もしそれが存在するのであれば――詩のテクストの紙面上において実現されている、複数の〈書き手〉のレイアウト、そしてそれが制作過程において実現している思考が、具体的な身体間の関係としてそのまま翻訳され上演されうるのであれば――テクストを制作するということが、具体的な身体によって構成される共同体の設計に直結することになるんじゃないか。そこで上演された身体らの共同体っていうのは、ひとつの中心でも、また単なるばらばらでもない、「私」を徹底して酷使することによって生まれた、充溢した共同体としてあるのではないか。
 テクストを制作することが、いくつもの宇宙同士の関係性の模索になっているとか、共同体の問題に関わるとか、さらには革命につながるのではないか、とぼくが昔からよく言っているのは、そういうことなのよね。たったひとりで文章を書くということが、革命的な共同体の実現に、まじに接続するその具体的なありようを、考えたいのよ。それが、詩を上演するということにぼくが期待していることかな。

 それをやるためには、やっぱり、書き手がしっかり自分の書いたテクストについて、ここはこういう感じで書いたとか、ここにこの文章を入れたことでこういうことが起こった、みたいなことを細かく説明できるようになる必要がまずあると思う。自分のテクストをちゃんと分析して、さらにそこから次のものにつなげていく。それが出来た上で、1%くらい可能性が出てくるかも、という感じだと思う。
 話をきいたうえで新聞家に対して期待したのは、権力を怖がらない、という方向性かもしれない。一般的に権力は当然だめと断言されるわけだけれど、でもそれは、政治とか、あるいはもっと多くの人を動かすときの話で、小さな上演でもそうなのかはちょっとわからない。むしろ小さな集団のなかでは、誰かが一定程度権力を持つということは、わりとはやく、すごいところに到達するための道だと思う。役者をどう教育するか、ということとも関係するだろうけれど。
 新聞家が、何人かの役者を集めて、食わせて、おまえら新聞家のために考えろ! と言うことで、到達できるようになるところもたくさんあると思う。

山本 それは、べたに、演劇のなかで多く取られてきたスタイルだよね(笑)。詩や小説においては、制作における組織化みたいなものはなかなかできないからね。

 劇団を運営してそこで役者を雇って集中的に制作するっていうのは、どうやってもどこかで権力的なところが生まれる。お給料をあげるということもそうだし、おれと一緒におまえらもがんばるんだ、と言うことも、そう。そこで達せられるものがある。それに対して、権力なんかないよね、とみんなで言っていても、なかなか追いつけない。
 だからというわけじゃないけど、自分がどういうふうにテクストを書いているかとかを、最大限まわりに共有することに、権力を感じてしまっているのでは、だめだと思う。

山本 まあ、村社さんはある程度、権力を重視している気もするけれどね。〈支度のディティールを伝播させる〉って言い方でなされていたのは、むしろ観客とのあいだの権力関係の明確化、前提化だったと思う。ぼくはその固定を批判した。

 もっと自分の権力を自覚的に扱うべきというか……テクストを書くことやそれを自分で分析して語ることが持っている権力なんて、そこまで大きくはないから。たかが知れてる。
 今日話した自己分析みたいなことくらいは、書き手として、役者にすべて言ってしまって、その上で、役者に任せるという感じがいいと思う。そこから先にも、明らかになっていない、汲み取るべき「語り手」はいる気がする。

山本 テクストをその制作者が自ら分析するということは、権力を高めるとかというよりは、むしろ逆に、権力を分散させるものとしてあるんじゃない?

 ああ、そうか。何も語らずブラックボックスであることが、一番の権力である、ということね。

山本 何も言わずに、勝手に意味をわかってくださいというのが一番やばい。テクストの分析を自他問わずやるということは、ブラックボックスの内部構造を明らかにして、そこに参入可能性を作ることにつながると思う。

 たしかに。

山本 もちろん書き手として自らのテクストを語るとき、一瞬権力的な振る舞いになるかもしれない。ひとりの指導者が立つというような……ただその先には、別の複数の指導者によって関与可能になった場が発生する。いわば、書き手というものが、ボールみたいに身体間で行ったり来たりできるようになる。だから、まず、ボールにする必要がある。

h 人と話しながら、自分の無意識にもってしまっている前提とか、語の選び方の基準とかをあぶり出さないといけない。自分がよいと思うものを自分でどうしてよいと思うかを分析するのはすごく難しいことだと思う。

山本 趣味判断みたいな?

 そう。わたしがなぜこの文章をいいと思うか、とか。

山本 ある程度までは分析を通して必然化することはできるかもしれないけれど、根本的に、たとえばバッタについて書かれている文章は好きだけどコオロギのことを書いてる文章はあんまり好きじゃない、みたいなレベルになると、徐々にどこかしら、どうしようもないところが出てくる。これは論理的には説明しきれない部分だな、というところが。

 そう。ろ過装置みたいなかんじで、なにかをのんでみて、それが自分の中を通って、きれいな水になって出てきたとして、でも、自分のなかにどんな泥とか、砂とかがはいっているかは、ぜんぜんみえない。泥とか砂はそれまでの蓄積だけれども、それは目に見えないし、分析しづらい。
 だから、自分がよいと思うことの説明はできないけれど、でも、自分はこう書いた、とかみたいに、出てきたもの、表現されたものの分析は、できる。入ってきた液体と、出てきた水はわかるわけだから、ろ過装置になにが使われているのかも、もしかしたらわかるかもしれない。
 他人の表現したものも、自分の経験や感覚をもとにすることしかできないけど、分析してみることはできる。わたしが今日村社さんのテクストにやってみたように。それを権力じゃないかと言うひともまたいるかもしれないけれど、そのくらいの権力性はみんな持ってしまっているものだから仕方ない。だって自分は自分以外にはなれないから。それを受け入れた上でどうするか、しかないと思う。

(おわり)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?