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イベント「新聞家 VS いぬのせなか座」後記①

(文責・山本)

 イベント「新聞家 VS いぬのせなか座 演劇上演と言語表現、それらのことどもにかかわる対論」、ぶじ終わりました。
 ご来場いただいたみなさま、そして関わってくださったみなさま、本当にありがとうございました。
 対決みたいな感じにならなかった、というのは、ぼくの望みでもありました。もちろん個々人で意見の相違などはあるべきだし、それが当日も明らかになったように思うけれども、表面的なところでプロレス的な戦いをしてもなんの意味もないと考えていたからです。
 きっかけとなった『現代詩手帖』での対談記事には、確かに当初かなり苛立ったところがあった。なぜ、と思ったところもあった。しかし、そこで雑に反論して、行き違い、喧嘩別れみたいなことになるだけなら、その後になにもつながらない。可能な限り自分にとっても、村社さんにとっても、さらにはその他の人たちにとっても、有意義なものとならなければ、自分がそこに時間をかける意味も価値もない。そういう気持ちで、単なる反論記事掲載というかたちではなく対話を前提としたかたちにしてもらい、それに向けて可能な限り準備をしました。
 とてもありがたかったことのひとつに、村社さんが真剣に応答してくださったということがありました。こちらが一方的に批評し、相手はただそれを聞くだけ、というかたちになるのが、もしかしたら軽薄な喧嘩になることよりも、個人的にずっとこわかったことだったかもしれません。しかしそれは杞憂でした。村社さんは自分の中の、おそらくはまだ言語化がうまくできていないところまで潜り、なんとかそれを言葉にしようとしてくださっていたと思います。それにうながされて、ぼくも、自分の中でまだ明確でなかったところが言語化できた気がします。

 イベントでもすこし言いましたが、ぼくは、新聞家作品をめぐる批評が、この世界においてまだまだ足りていないと思っています(作品をめぐる批評がなされつくすなんてことはほぼありえないだろうけれども)。なんだか興味深いよね、とか、あんなのはだめ、とかっていうところにとどまっているところがあるのではないか。新聞家の試みは、作品をただ作るだけでなく、そこに批評もあわせて食い込ませることだと思うのですが(「意見会」だけに限った話ではなく、もっと根本的なところでそうだと思う)、それは、作品内部だけでなく、その外においても豊かに行われていく必要がある。でなければ、新聞家作品の発展可能性も、なされたことが別の制作や議論に繋がっていく可能性も、著しく無くなってしまうだろう。
 もちろん、そうした状況を生むことは、批評をする側の責任もありつつ、同時に制作者側の責任も無視できない。なぜなら作品やテクストに真剣に接して、分析し、対話するというのは、端的にものすごく大変なことだから。それを多くの人たちのあいだでやるという状態を作ることは、とてもむずかしい。単に作品を作るだけではなかなか実現できない。
 やり方はいろいろあると思います。たとえば原稿料などを払って誰かに批評してもらうとか。トークイベントに出演してもらうとか。あるいは雑誌とかで特集を組んでもらうとか? いぬのせなか座であれば、いわば友情と信念と、自らが所属しているグループの発展のため、という感じで、無賃の泥沼相互批評が為され続けているように思う。
 それは批評対象への愛があるかどうかという話に還元しきれない。具体的にそれを促す場を設計していく必要がある(泥沼な議論を行っていく時間にお金を発生させられるような仕組みを設けたりとか。たとえば「地点」が会社として役者を雇っているとかもそこに関わると思う)。
 と同時に、ある部分では、単に個々人の愛の話でもある、のかもしれない。
 ぼくは、批評家ではなく一制作者として生きてきたと自分に思うけれども、それでも、おのれの制作を続けるために、誰かの作品について考え、論じたり、相互にやりとりをしたりといったことが、なければならなかった。それによって達せられるものの大きさを、無視できなかった。多くのひとが、批評家か作家かや、ジャンル、また自分の作品かそうでないかなども超えて、限界まで言葉を尽くしあい、個々の制作もそれに必死になって応える、ということがなされていけば、達せられるものは確実にある。ぼくはある意味、本当につまらない話だけれども、そこで達せられるものに向けての愛というか過度の期待を、どこかで持っているのかもしれない。
 今回のイベントがそういう状況を生むひとつのきっかけになれば幸いです。

 今後ですが、今回のイベントの記録は、いぬのせなか座のnoteアカウントで公開(販売?)することになるかと思います。なるはやで準備を進めます。かなり話が複雑になったりもしたので、当日来てくださった方にも、あるいはもちろん来られなかったという方にも、また数年後に関心を持ったという方にも、再度精緻にアクセスできる状態を作りたいと思います。その結果、当日なされた議論の穴を見つけてもらえたり、あるいは新たに発展させてもらえたりしたら、とてもうれしい。
 また、村社さんとは、『現代詩手帖』誌面でも別途対話を追加で行うかもしれません(そういう話がすこし出ている)。話しきれなかったことはたくさんあります。いぬのせなか座の鈴木一平も、途中佐々木敦さんがお話されていた「新聞家の作品は詩というより小説のほうに関わりがある」という指摘に対して、別の意見を持っていたけれど時間的に発言できなかったと言っていました。また諸々決まり次第、Twitterなどでお知らせします。

とまで書いて、思い出したのですが、当日準備していたもののひとつに、関連するかもしれない詩作品のリストというのがあったのでした。大急ぎで選び、それぞれのスキャン画像を準備して、村社さんにも共有したのですが、それに触れる時間はもちろんまったくなく。本当に突貫でつくったものなので、なんの参考になるかわかりませんが、とりあえず、以下にメモとしてのせておきます。『現代詩手帖』対談記事の話と絡むかもしれないという理由で挙げたものや、「書き手」「語り手」の問題に関わるかもということで挙げたもの、新聞家作品でのテクストと近いのではないかという理由で挙げたものなど、様々です。

○描写と思考
・藤原安紀子『音づれる聲』抜粋/『フォ ト ン』抜粋
・江代充「午後の光」(『梢にて』)
・藤富保男「ぼくの基礎」(『言語の面積』)
・いぬのせなか座『てつき1』(特に山本浩貴「首のわきにたつ着がえ」、h(p.15)など)

○テクストの持つ必然性と寓話
・瀬尾育生「獣医」(『ハイリリー・ハイロー』)/「エブタイド」(『アンユナイテッド・ネイションズ』)

○「書き手」「語り手」をめぐって
・入沢康夫『わが出雲・わが鎮魂』抜粋

○音(+視覚的配置)
・鈴木一平「すべては、明るく」(『現代詩手帖』2017年7月号)
・野村喜和夫「アピアピ街道」(『デジャヴュ街道』)/「第四十六番(そして眩暈)」(『スペクタクル そして最後の三分間』)
・山本陽子「遥かする、するするながらⅢ」/「あかり あかり」/『『青春――くらがり(1969……)』』抜粋

○視覚的配置と複数の声
・関口涼子「歯科医の変革期」「言葉が人間より先に死なないなんて誰にも言えない」(『発光体 diapositive』)
・藤井貞和「神の子犬」「ゆり(後)2」(『神の子犬』)
・最果タヒ「術後」(『グッドモーニング』)
・松本圭二『詩篇アマータイム』抜粋


 さて、以下では、当日話しきれなかったことのひとつである、新聞家作品のテクストをめぐっての考えを、ほうっておくとすぐに忘れてしまいそうなので、ざっくりメモとしてまとめておきたいと思います。

※以下の記述における、『失恋』テクストの具体的な分析に関しては、いぬのせなか座のhによる指摘をもとに山本が記述したものです。この後記の後半(次回)には、hと山本による、『失恋』テクストとhの作品の類似と差異をめぐっての対話を、記録として掲載します。

 *

『失恋』のテクストは600字程度の比較的短いものです。これを、ふたりの役者が、それぞれ一回ずつ、声として発する約20分程度の、上演。
 初演では、上演後にテクストが紙として配布され、今回のイベントでの再演では、上演前にテクストが配布されました。

 冒頭の一文は、《周りの人はもっと準備してきていた。》
 まずこれを、初演のかたちで、つまり事前にテクストを見てからではなく声としてだけ聞くとすると、どうなるか。その場合、想定される可能性が多すぎて、イメージがかなり拡散した状態になるのではないでしょうか。
 続けて、《それで、蝋を引いたような長靴を履いて、舗装されていない川縁(かわぶち)にひとり、寄りかかっている。》という声が発せられると、聞いている側は、想定しうる情景がまずまず絞れそうになってくるのだけれども、音としてだけ聞いているので、最初の文にもどって検証することが(記憶をかろうじて頼りにすることのほかに)できないし、そもそもそんな時間も十分に与えられぬまま次の文章の発話がなされてしまうので、できることと言えば、最初の一文で考えたイメージをキャンセルし、新たに発せられた文から組み立てうる新たなイメージをおぼろげに手さぐりするくらいまでになってしまう。
 そうした営みが、基本的には最後まで続く。ただ『失恋』の場合は、ほかの新聞家の作品とは違って、短いテクストが二度、異なる役者によって読み上げられるので、あるいみ再読が可能になっているとも言える。ただやはり、限界はある。絞りきれない様々な可能性の前で、立ち尽くすような経験が多くの観客において起こるでしょう。
 この経験を、新聞家作品の重要なポイントとして捉えるという観点も、当然ありうると思います。ただ、イベントですこしお話したように、それは村社さんが制作過程で獲得していた思考とも、役者の方々が獲得していた思考とも、若干ことなるように感じられる。なぜなら両者ともに、事前にテクストが手元にあるなかで、制作しているからです。
 観客の側は、テクストを与えられないなかで作品と接する。一方、村社さんと役者の方々は、テクストを事前に書き言葉として視覚的に所持しているなかで、作品と接している。この落差をどう考えるのか。村社さんはそれを〈支度のディティールを伝播させる〉といった言い方で、検討していました。
 その上で、しかしぼくは、テクストを視覚的に把握可能である役者の方々や村社さんの立場に近いところから、新聞家作品の可能性について考えてみたいと思ってきました。テクストを書くことと、それを上演すること、そのあいだの技術や思考にこそ、関心があるからです。そのため、今回の上演で事前にテクストが配布されたことはとても喜ばしいことだと考えています。
 もちろんそれは、もともとあった新聞家の可能性を狭めることになるのかもしれません。それでも、いったんは新聞家の作品を構成する最大要素のひとつである(書き言葉としての)テクストに、向き合う必要があると思います。

 さて、『失恋』のテクストを印刷された紙面として読むと、どうなるか。声だけの場合と大きく異なるのは、やはりまず第一に、自由かつ精密に再読が可能であるということです。
 たとえば先ほども触れた冒頭の一文《周りの人はもっと準備してきていた。》は、読みはじめだと、声だけの場合と同じく、そこであらわされているものが絞りきれない感覚が強く生まれる。でも、続けて読んでいった上で、あらためてこの文にもどれば、「川にあなたと一緒にきたわたしが、周りの人たちを見て語った言葉」という程度には、すぐに可能性を絞ることができてしまう。いわば、別の文で表現されているものとのあいだの関係を想定し、検証することで、一文の持つ可能性が縮減され、結果としてイメージがはっきりとした輪郭でもって立ち上がってくるようになる。
 ここで重要なのは、一文目と、次の文、さらにその次の文、が、ひとつの一貫した作品のテクストのなかの「部分」として、書かれ並べられているという認識が、文ごとの可能性の縮減に寄与しているだろうということです。もしも、各々の文が、まったく別の次元のもの同士であるならば、《周りの人はもっと準備してきていた。》という文のあとに、《それで、蝋を引いたような長靴を履いて、舗装されていない川縁(かわぶち)にひとり、寄りかかっている。》という文が来たとしても、個々の文が持ちうる思考の可能性は、絞られない。というか、一方の文をもとにもう一方の文の情報を絞る理由がどこにもない。
 村社さんがイベントで《(上演・実践における)ここにしか棲み得ないものとしての「語り手」》という言葉で呼んでいたもの、またぼくがフィクショナルな〈書き手〉という言葉や、あるいは別稿で、〈主観性〉によって仮構される〈「私」〉、などと呼んでいたものは、こうした文と文のあいだの関係性に関わるでしょう。つまり、文が持ちうる情報が、他の文との配置のなかで変動し、結果として複文でなければあり得なかった複雑な思考がなされていくというのが「テクスト」であり、そこでの仕組みは、ある言葉がそこに置かれたことの必然性(すなわち言葉のレイアウトの論理)、そしてそれをめぐるフィクショナルな単位としての〈書き手〉or〈語り手〉によって、成り立っていると考えられるのです。

 新聞家作品のテクスト、特に今回の『失恋』のテクストは、こうした言葉のレイアウトの論理の宿=単位としての〈書き手〉or〈語り手〉を、紙面上の言葉の再読可能性でもって複雑に構築しようとしている側面があると思います。つまり端的に言えば、そこでは明らかに、線的な声を聞くだけでは処理しきれない(または処理するのに極端に負荷のかかる)、非線形的とも言える思考をめぐる操作が、ほうぼうで為されている。
 軽く見てみれば、たとえば冒頭付近、《あなたは手頃な葦に8円のビニール袋をくくりつけて、その中に個人的な淡水だまりを作った。それと、中腹のあなたとは同じだった。ささなみの一部になって、なるべく抗わないように、でも中と外は混じらないし入れ替わらない。》というところ。
 ここでは、まず《あなた》と《ビニール》(+淡水だまり)のふたつの要素が提示され、それらが《同じだった》と記される。そこで、川のなかに入れたビニールをめぐって生じる思考が、同じく川のなかにいる《中腹のあなた》にまで波及しうるような状態が用意される。ただ、それはまだこの時点ではおぼろげです。なにがどう同じなのかもわからないし、そもそも《それと、中腹のあなたとは同じだった。》の《それ》が何を指すのかが、微妙に絞りきれない。《中腹》という、「山」など高低に関わるものとともに使われることの多い言葉が不意に使用されていることも、いくらかそれを促しているでしょう。
 ただ、《ささなみの一部になって、なるべく抗わないように、でも中と外は混じらないし入れ替わらない。》まで読み進めると、《あなた》と《ビニール》(+淡水だまり)の関係が具体的に展開される。結果、読み手は、すこし前まで遡り、あらためて《あなたは手頃な葦に〜》と読み直し、人間とビニールのあいだで共有可能性ないしは変容可能性が起こされていることにはっきりと気づくのです。
 また、冒頭あたりに記されている《川縁》という言葉と、そのすこしあと、場面がおそらく切り替わった後の文での《向かいには縁がぐずぐずの》という言葉は、「縁」という言葉で遠距離の共鳴を起こしています。加えて、《今日はたったったと走り終えん破裂音に目をやる》という一節のあとに一文挟んで置かれる《その人が澱みなく反転したったいま》という一節、この両者のあいだで感じられる、「たった」という特徴的な音の共鳴。これらは声だけで聞いてもある程度知覚できるところでしょうが、紙面上に記された視覚的な文字列のもとで確認されることで、より確かなものとして読み手のなかに抱かれます。
 もうひとつだけ言えば、視覚的な文字列として見たとき容易に気づけることとして、場面の大きな切り替わりがいくつか設けられているということがあります。たとえば《混じらないし入れ替わらない。叔母の言う「掘っ建て小屋」》という箇所での文の切れ目や、《連れていってくれるという。かじかが通ったのか》での文の切れ目などは、明らかな場面転換が生み出されている。
 場面というのは、言葉のレイアウトの論理の宿=単位としての〈書き手〉or〈語り手〉に類する、テクスト内部に想定される一貫性としてあります。(イベントで配布された村社さんのメモのなかの「E」でも、入沢康夫の詩論を参照しつつ、指摘されています。詳しくは『詩の構造についての覚え書』第8章をご参照ください。)そしてそれはやはり、視覚的な文字列における再読可能性を土台として、模索されるところが多分にある。声だけで聞いていると、いつ場面が切り替わったのかわからないまま言葉を処理していってしまい、結果としてうまく一貫性が見いだせずに思考が破綻するということが容易にありうる。でも、紙面として与えられているなら、一読目では場面転換が行われていないものとして読んで、わからなくなってしまっても、それを受けて二読目、三読目と繰り返していけば、ああここで切れているのか、ということにたどり着ける。

 こういった事象らが、新聞家作品のテクストが書き言葉として制作されているからこそ、生じていると言えるのではないでしょうか。村社さんは確実に、書き言葉であるから自らに可能になっている操作を行い、テクストを制作しているのだけれど、観客がそれを声としてだけ受け取ると、起こっている事態が追いきれなくて破綻してしまう。
 この破綻が、単にテクストを事前に共有されるのではない仕方で、上演において避けられうるとしたら、はたしてどういったやり方がありうるのでしょうか。あるいは、書き言葉での思考が、単にそれを声として線的に読み上げるのではない仕方で、しかし十全に上演されるということはありえないのでしょうか。そういった問いが、出てくるように思います。


 また、ここですこし逸脱して記しておけば、佐々木敦さんがイベントでも発言され、また終わった後にもツイートされた以下の問題については、ぼくも非常に重要と思いつつ、それを考えるためにはしかし否応なく「語り手」や「登場人物」を考えなければならない、とも思っています。

 即物的な意味でのエクリチュールとしての台詞、そこでの語そのものの露呈。これは、しかし新聞家の作品を通して感じざるをえないところです。
 ただ同時に、新聞家の実践は、そうしたエクリチュールとしての台詞や、語の露呈といったことがらに、否応なく「語り手」のような存在がつきまとってしまうという問題についてこそ、向かっているようにも感じるのです。村社さんの意図などという話ではなく、あくまで作品として考えても、そうです。
 というのもたとえば《語り手たる「わたし」は「わ」と「た」し」でしかない》ならば、一連のテクストとして書かれる理由が見当たらないからです。もっと言葉はずたずたにされてもいいはずなのです。しかし、村社さんのテクストは、あまりにも既存の詩や小説に、似ている。そしてそれが何を意味するかと言えば、「語り手」のような一種の構成方法や運動単位が、問題の重要な核として浮上せざるをえないということを示していると思います。
 私らは語やその並びを、それとしてだけで見ることができない。どうやっても、表現、ないしは魂のようなものを、見ざるをえない。そこからしかスタートできない。
 テクストと声のあいだに、避けがたく魂が、メディウムのようなものとして食い込んでしまうこと。それをどう考えるかということが模索されているからこそ、役者は、ロボットなどであってはならない。生物の身体(とされる存在)でなければならない。
 もちろんそこで、一周回るようにして、エクリチュールとしての台詞や、語の露呈といった問題が、再燃する。だから、結局、佐々木さんのおっしゃっていることにもどっていくような気もする。そこに差はほぼないのかもしれない。
 ただ個人的には、ぼくは、語から出発すると考えるのではなく、そこに対して私らが否応なく起動させてしまう「向こう側への魂の発見」からこそ出発する必要があるのではないか、と感じる。だから、村社さんが、語や意味、という言い方ではなく、「語り手」という言葉を用いるようになった、と今回発言されていたことは、あるいみ新聞家の表向きの異様さや謎を減らしてしまうところがあるかもしれないけれども、それでも可能性のあることだと思っています。私らは、エクリチュールの物質性などのようなものと、どう接するのか。そこで避けがたく生じてしまう魂のような「形式」は、いかなるかたちで分解・再構築されうるのか。それは、非常にベタでよくあるはなしなのかもしれませんが、上演だけでなく、詩や小説の核にある問題でもあるでしょう。そのあたりが新聞家の今後の作品を通してあきらかになることが、ぼくの持つ期待の、ひとつかもしれません。

(長くなったので、つづく。次回はhによる「自分だったら『失恋』テクストをこう書く」話と、hと山本による「hの作品と『失恋』テクストの比較」をめぐる対話です。)

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