私は自分を美しいって思いたかったんだと思う。 ただ、まだ自分の美しいの基準がなくて、世間の決めたものに従うしかなかった

中学生の時の私は自分の周りの世界を否定したかった。
私よりかわいい女の子も、私よりも頭の良い女の子も、私よりセンスの良い女の子も、私より素直な女の子も認めるわけにはいかなかった。
認めたら自分は特別じゃなくなってしまう。
なんの根拠もないけど自分は特別だと思いたかった。平凡が一番怖かったのに平凡な自分が嫌だった。なぜ平凡が恐ろしかったんだろう、きっと平凡である自分には魅力なんて何もないと思っていたからだろう。
恐ろしいほどに自信がなかったんだと思う。
何か特別じゃないとそこにいていいって思えなかったんだろう。
そしてひねくれていた。
素直だったら努力を重ねることで自信をつけようとしたんだろう、でも私は逃避する方法を選んだ。努力した先に自分を美しいと思えないことが怖かった。
私は自分を美しいって思いたかったんだと思う。
ただ、まだ自分の美しいの基準がなくて、世間の決めたものに従うしかなかった。

そんな時私がすがった、逃避先がいくつかある。
RPGの世界、そこはワクワクする違う世界が広がり、プレイする人がどんな人でも平等だし、私はいなくて済むし友達も出てこない。
漫画の世界、私が好きなのは狐のお面を被っている何を考えているのかわからない浮世離れした男の子の話だった。そこにも私は出てこないし友達に似たキャラクターは出てこない。
テクノミュージック。気持ちがいいし、歌詞がないから私の世代の子たちの気持ちが歌われて現実に戻らなくていい、私のことは歌われていない。もしくは昭和の歌か難解な歌詞の歌。
そしてハイファッション誌、FIGAROだった。大好きな美しい世界観に私はいないし、友人もいない。

学生服姿に三つ折りソックス姿で宮城のコンビニの雑誌コーナーで立ち読みをする。(ごめんなさい)
お小遣い日に何度も立ち読みしたFIGAROをやっと買うことができた。
学校帰りバスの中でFIGAROを開く。
そこにはどんな動きをしてもどんな角度からも美しいであろう夢のようなチュールのドレスがあった。だれにも媚びない真っ黒な直線のドレスがあった。
そこにはメッセージを発信する強くて自由な女優さんのインタビューがあった。
そこには誰かが着ているからという理由ではなく好きな服を着て好きな場所に佇む人たちがいた。
そこには夢のような旅の景色があり、そこに暮らす猫が自由気ままな姿を晒していた。
私はおでこのニキビや癖っ毛の剛毛や二重まぶたではないことを忘れて美しい世界に逃避した。

家に帰ってお気に入りのコーディネイトやモデルさん、景色などを切り抜いて自分のノートにコメントを添えて貼り付けるスクラップブック作りをする時間はとにかく楽しかった。将来漫画家か雑誌の編集者になりたいなって思っていた。

今思えばあの頃の私がとても愛おしい。
私だけじゃない、素直になれなくてひねくれてる子なんてたくさんいるんだろう。それが思春期ってものかもしれないし。
あの時「私よりかわいい」とか「私よりかしこい」とか勝手に比較して羨ましかった彼女たちもひねくれていたかもしれない。
世界が狭いと比べちゃうよね、当時の私、そう思っちゃうよね。
当時自分に価値を見出せなかったけど、若く温かい命を燃やしてもがいていた自分はきっと美しかったと思う。色んなことを思い、考え、心を痛め、心を弾ませていた。分厚い膜の中で様々な色を鈍く光らせていたんだと思う。

続きはフィガロの連載にて

https://madamefigaro.jp/culture/series/kamiko-inuyama/190306-15figaro.html

フィガロで連載が始まりました。
どうぞよろしくお願い致します。

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