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推し、萌ゆを読んで

以前文學界のむらむら読書に書いた原稿をここに置いておきます。短いです!

推し、燃ゆ

自分が誰かを推しているからだろうか、ここ何年か「推しと推す人」を書いた作品を漫画、小説ともによく読む。以前ここで取り上げた「持続可能な魂の利用」もそうだし、今回取り上げる宇佐見りん「推し、燃ゆ」もそうだ。
この「推し、燃ゆ」はそのタイトルの通り推しがファンを殴り、炎上するところから始まる。推しがなぜ殴ったのか、真実はどうなのかは謎のまま、推す人あかりの日々は描かれる。
そう、推しは謎だ。謎だから私たちは言葉から指先の動きまで解釈をして、自分の中の推し像を作ってゆく。あかりも推しを解釈し、それをブログに綴る。その解釈にファンがいて交流も生まれている。
こうやって推しは教祖の様に、解釈を発信するものは使徒のような立ち位置になる。ただ、宗教と決定的に違うのは推しに教祖であることを押し付けないことだ(押し付ける人もいるが)。推しを推す、それは個人が心の中で自分だけの、自分に都合の良い、その時の自分を救う宗教を作り上げることだと私は解釈している。ありがたい教えじゃなくても、救いになる。
冒頭会話の中ででてくる「推しは命にかかわるからね」は私も友人と話したことがある。いつだかtwitterで「オタクの喜怒哀楽は冠婚葬祭」と指摘をしている方がいて、膝を打った。推しを摂取した後の私たちは「無理、死ぬ」「生きててよかった」「はい結婚」などと表現が過剰で、でもその過剰さはそれだけ切実だということだ。
推しのかわいさは「からす、なぜ鳴くの、からすはやまに、かわいい七つの子があるからよ、の歌にあるような「かわいい」だと思う」も本当にそうだ。私の中で温め続けた教祖。優しく包み込んで守っていたい。私の生命力と推しの概念はからすの卵の中でああためられ、混ざり合う。
もし、その宗教が取り上げられてしまったら。もうそれを信仰することができなくなったら。
「推しを取り込むことは自分を呼び覚すことだ。諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを、推しが引きずり出す。だからこそ、推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした」とあかりは思う。解釈して、自分の存在を感じて、自分の存在を愛おしいと感じようとする。でもその対象がいなくなったら。
私はこれまで、そうなるとひとしきり落ち込んで、依存先がないことに伴い酒と買い物量が増え、しんどくなりながらなんとか次の神を見つけた。けれど、あかりほどに推しと自分が一体化していたら。生き物としての形が変わるくらいの出来事なのだ。
その後のあかりが幸せに生きられる世出会って欲しいと強く思う。

宇佐見りん先生芥川賞受賞おめでとうございます

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