ぼくは働くのにはあまり向いてない

俺といぬ氏をわかつ?大きな違いは「働くこと」への意欲なんだと思っているんだけど、そこを聞きたい。無我夢中といったって、結構、働いたりクリエイトすることへの欲望が高いわけじゃない?そのあたりを聞かせてくれたらばと思う。

お互いの違いについて話すの、楽しそう。

ぺんぎん氏が言ってるスキゾとパラノ、前者は色んなことに関心がある人、後者はひとつのことにこだわる人、みたいなことのようだが、まあだいたいの人は両方あるのかなあと。

ぼくがコピーライターの仕事をやりたいと思ったのも、コピーを書くというパラノ的なことと、広い見識が必要というスキゾ的なことの両方が必要だよ、と職業案内書に書いてあったからである。

それで、働くことへの意欲、という意味では、ぼくは割とまわりからいぬじんさんほど楽しそうに仕事してる人はいない、とたまに言われる程度には働くことが好きだ。

ただぼくの得意なことは限られていて、力仕事とか、丁寧に何かをコツコツやることとか、ミスが許されないこととか、大人数で規律を守って動くことは苦手である。

つまり世の中で必要とされてるだいたいの仕事には向いてないのである。

そんな自分でも役に立てることや得意だと思えることがあれば、そりゃまあ頑張るし、それで喜んでもらえたらうれしいし、という感じである。

つまりは自分はもともと社会不適合者だという認識があって、だからこそわずかな可動域の中であっても、それなりに働けるのがうれしいのかもしれない。

ところが仕事をしていると、つい自分は色々できるんじゃないかと勘違いしてしまい、他の社会というゲームのアルゴリズムを熟知しているスーパーマンたちと自分を混同してしまって、自分を見失い、勝手に苦しみだしたりする。

いやいや違うでしょ、ぼくは彼らほど頭の回転も早くないし、友だちもいないし、コミュニケーション力もないし、専門性も高くない、自分の唯一得意なことは、自分が好きなものを知ってるということでしょ、というわけである。

好き、を仕事にしたい、好き、で満たされたい、好き、と一緒に進みたい、それがぼくのたったひとつの願いかもしれなくて、そこにはあんまりクリエイティブとか広告とか関係ないかも。

じゃあ好きって一体なんなの、みたいな話はあるが、これは人の数だけ違う。

その違いこそが大事で、その好きなもの、好きな世界、好きな感情をすべての拠り所にして生きていけば、だいたいのことは気にならない。

そんな風に思って暮らしています。

それで、ぺんぎん氏に聞いてみたいのは、これからの世界は、そうやって好きだけを頼りに生きてても問題ないのか、それとも好きじゃないこともやっていかないと生き残れないのか、そのあたりについて思うところはありますか、ということである。

そう聞くからには、さっきの持論でほんとに大丈夫なのかな、という不安も多少はあるからですが。

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