マグロの生き方、オコゼの生き方

最近はあまりブログを書く気が起こらないのだが、ぺんぎん氏があまりに気持ちよくほめてくれるのでホイホイと釣られて出てきた。

このところずっと、別に誰にも頼まれてもいないところに自分から首を突っ込み続けていて、もちろん誰にも頼まれてない話だからうまい結果が出るとは限らず、しかし泳ぎ続けないとそのまま後ろに流されていって、酸素が供給されなくなって死んでしまいそうで、ひたすら泳ぎ続けている感じだ。

死んでしまい「そう」というところがミソで、じゃあマグロのように泳ぎ続けなければ本当に死んでしまうのかというとよくわからない。

泳ぐのをやめて、岩陰にひっそりと気配を殺して様子をうかがい、獲物が近づく瞬間をじっと待つようなオコゼ的生き方というのもあるのだろうなと思う。

しかしオコゼのように生きるには、何日もエサにありつくことができなくても平気でいられる持久力や、それでいて目の前にチャンスがあったときには一気に飛びつける瞬発力を兼ね備えている必要があり、おまけに誰にも見つけられず孤独に耐え続けられる胆力もなければやっていけない。

そう考えると、泳ぎ続けることに疲れるなあと思うことはあっても、ぼくはマグロ的生き方のほうが向いているような気がする。

さて近況といえば、もう家を引っ越してから10ヵ月くらい経ちますが、近所での移動だったこともあり、環境に慣れるのも早く、非常に快適です。

昨日は子どもが二人で軒先で遊んでいたら、お向かいの奥さんが庭になっている金柑をくださったそうで、兄弟でワーワー喜びながら食べてて、ぼくはその光景を横目で見ながら夕食を作っていた。

なんというか、ぼくはこういう何気ない日常の中の幸せ、みたいなものに出くわすと、本当に特別な、かけがえのない時間だなと思うと同時に、しかしすぐに子どもたちも大きくなって、こういう日々は一瞬で過ぎ去ってしまうのだろうなとも思う。

幸せな時間はすぐに失われる。

いったいぼくは、いつからそれを当然のこととして思うようになったのだろう。

いつから、時間というものはまっすぐ前へと進んでいき、先に進むと二度と元に戻らず、前に進むこと以外を深く考えても仕方がないと思うようになったのだろう。

東村先生に教えてもらったのだが、こういう時間意識を真木悠介の『時間の比較社会学』では近代社会特有の「直線的な時間」と呼んでいるそうだ。

この本の中では時間意識には4つの形態があると論じられている。

1つめは、原始共同体の時間。ここでは時間は「反復」するものとしてとらえられ、可逆的なものだった。

2つめは、ヘレニズムの時間で、ここでは時間は「円環する」ものとしてとらえられ、人の生と死とともに反復し、ぐるぐると巡っていくものだった。

3つめは、ヘブライニズムの時間。ここでは時間は「線分」としてとらえられ、未来に目が向けられ、不可逆なものだという視点がある。

そして最後が、近代社会の時間。ここでは時間は「直線的」で、現在は未来のためのスケジュール化してしまい、人々の「現在からの疎外」が増幅されていく。

「この幸せな瞬間もすぐに過去のものとなって消え去ってしまう」というぼくの虚無的な感情は、まさにこの直線的な時間意識から生まれているものなのだろう。

それもこれも「現在は未来のためにある」という意識から、いつまでたっても解放されないからなのだろう。

会社で来年に向けた目標設定を書き、5年後の中期経営計画に目を通し、10年後のブランドビジョンについて話をし続ける限り、ぼくは直線的な時間の意識からは自由になることはないのだ。

だからこそ今はマインドフルネスや禅のように「いま、ここ(ぺんぎん氏に教わったやつだ)」に意識を集中する取り組みが注目されているのだろうし、芸術におけるインスタレーションや、それこそ多様な人々と同じ時間を共有するワークショップへの関心が高まっているのも、そういう理由なのかもしれない。

よくわからない。

後悔しないように生きたいと思うし、実際にそれほど後悔していることは今はないけど、さて未来を予約し、それをタスクとして消化していく暮らしはどうなんだろうな、とも思う(そう思いながら日々ひたすら消化していっている)。

子どもと散歩をしていると、予定とは全然違う方向に話が転がっていく。

キャッチボールをしに行ったのに、小さいバッタを見つけて草むらに場を移して虫探しがはじまり、それが急に鬼ごっこに変わり、汗をかいたからカルピスが飲みたいと言ってまた移動がはじまる。

子どもとの時間は、ぼくの凝り固まった時間意識を溶かしていく。

ぼくらは、生まれて育ち、今後は子どもを産み育て、やがて死んでいき、また新しい命がどこかで生まれる、そういった円環の中で存在していることも、やはりたしかなのだ。

中年期の発達課題は、子どもを産み育てたり、後進を育成したりする「生殖」だというけれども、ひょっとすると、老化を感じ、少し死の影が見え始めたこのあたりで一度人生における時間意識を見直して、自分の力だけではどうにもならないことばかりの世界の中で、いまだ命の炎を燃やすことができていることをそっと祝い、「いま、ここ」をじっくりと味わうタイミングなのかもしれない。

ぺんぎん氏の時間意識についてもうかがってみたいものである。

それではdag.

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