ぼくがワークショップが「スキ」な理由をちょっと考えてみた

ぺりお氏の文章を読んで、なんとゆうか、ぼくが知らないワークショップのダークサイドのようなものがある気がした。

ぼくが熱心に取り組んでいるワークショップというのは、いつも何か目指す成果物があって、そこに向かってみんながあっちにいったりこっちにいったりしながら、ゲラゲラ笑ったり、時には多少のギスギスした瞬間もあったりして、だけどなんとかゴールまでたどり着けたね、という小旅行のようなイメージ。

もちろんそんなことをわざわざ時間取ってやる必要ある?とか、ワークショップって、ワーワーやって何かやった気になるだけで何も生まれなかったりするでしょ?なんて抵抗されることも多いけど、一緒にやった人たちの多くはみんなやってよかったと言ってくれる(と信じている)。

もっと言えば、ぼくにとってのワークショップというのは特に決まった形があるわけではなく、どんな手順、どんな行程で手を動かしていけば、よりみんなが遠くに行けるか?ということをお題に応じていつもゼロから考えて準備している。

なので、本格的なお作法のある、ちゃんとしたワークショップができる自信はないし、興味もあまりない。

ぺんぎん氏が身を置いていた世界でのワークショップは間違いなくとても正統なちゃんとしたワークショップだったのだろうし、それはたぶんかなり儀式的な要素が大事にされていそうだし、それを頭のいい人たちがとても丁寧にスムーズに進行させていくのだろう。

だからこその窮屈さがあるのだろうし、形式や儀式を伴ったある種の権力が行使されることにネガティブな印象を受ける人も少なからずいそうな感じがする。

いや、それはたぶんぼくがワークショップを運営しているときですら、それを感じている人たちはたくさんいるだろう。

ただ、ぼくはワークショップ自体を神聖視はしていないと思う。

ワークショップは、異なる背景を持つ人々が集まって、普通にやっていくよりも、より遠くに、そしてより楽しい方向へと進んでいくための手段でしかないと思っている。

たぶんぼくはワークショップが好きなのではなくて、みんなのアイデアや行動が入り混じっていく様子が見たいのだろうし、そこで見たことのないものが生まれるのを楽しみにしているだけなのだろう。

ハプニングが見たいだけなのだ。

ただの野次馬根性である。

というわけで、あらためて僕は予定調和だったりあらかじめゴールが見えていることを丁寧にやっていくことが苦手なのだと思った。

久しぶりの往復書簡、楽しいですね。

ありがとう。

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