人として生きる

ぺんぎん氏の文章の中で「なりすまし」という言葉が気になってちょっと調べてみたら、自分はその社会の中心的な位置にいる人間ではないことを自覚して、しかしまるで社会に適合しているかのようなふりをして生きること、というようなことが書いてあった。

それで思い出したのだけれども、ぼくは新入社員の頃に「広告は永遠のストレンジャー」という原稿を書いて小さな賞をいただいたことがあって、それは世の中のすべての人が表現者になれる、「1億総クリエイター」の時代において広告会社で働く人はいったいどうすればいいのか、という話なのだが、そこでぼくが出した結論は、ストレンジャーであり続けること、この世界の中心におさまろうとするのではなく、いつもみんなの知らない世界との出入り口にいることだ、ということだった。

なんだ、自分はその頃から社会の真ん中にいることを望んでいなかったんだなと思うし、それがいつのまにか何かの真ん中におさまろうとしはじめ、それができなくて苦しんでいて、結局うまくいかなくて放り出さると、その放り出された先で思ったより生き生きしてたりする。

ただのへそ曲がり、空気の読めないやつ、自己中心的な人間と言われたらまあその通りだし、今さら変えるつもりもないので、これから先はストレンジャーでいることを自覚して生きていきたいなあと思った。

それで、ぺんぎん氏からの次の問いは、

いぬ氏がこれまでキャリア形成で心がけてきたことはありますか。リンク先のものに倣っていえば「自ら偶然の出来事を引き寄せるよう働きかけ、積極的にキャリア形成の機会を創出する」ようにしてきたことはありますか?

ということなのだけれども、実は最近、自分の中でキャリアという概念がよくわからなくなってきている。

これまではコピーライターという職につかないとコピーは書けないとか、大きな会社で働かないと面白い仕事はできないとか思いこんでいて、まあたしかにそういう面はあって、そういう場所に身を置くことでたくさんの機会が与えられ、色んなことができた。

だからこそ思うのかもしれないが、結局はコピーライターとか広告会社とかいうものは他人から与えられた役割であって、その役割をすっぽりとかぶって、あたかも自分はプロのクリエイター、プロのコミュニケーションの専門家、というように「なりすまし」ているだけである。

それを果たしてキャリアと言えるのだろうか、それは誰かから与えられた役割を、それらしくふるまう技術が年々向上しているだけにすぎないのじゃないだろうか、と思うのである。

いま、ぼくは色んな自分を持っている。

広告会社の会社員、事業開発プランナー、元コピーライター、マーケティングプランナー、とある大阪のプロジェクトメンバー、はてなブロガー、サードブロガー、うだつの上がらない夫、ぼーっとしている父、おじさん研究家、日本恐妻党の代表、ただのおっさん。

そのすべてがぼくのキャリアであり、その集合体としてのぼくのキャリアである。

と考えるに、色々と公私混同を続けてきた結果、ぼくのキャリアは、ぼくという人間とほぼイコールであって、キャリアを形成するということは、ぼくが人としてどう生きていくのか、と同じである。

ゴルゴ13は「仕事が人生のすべてなのか」と聞かれたときに、こう答えたそうだ。

「すべてが、仕事だ」

なので、キャリアということにあまり深くとらわれず、ぼくの人生という仕事、いうならば株式会社ぼく、という仕事を少しでも面白くやっていくことが目下の関心事なのである。

それでぺんぎん氏に聞いてみたいことは、ぺんぎん氏にとっては、キャリアとは何か、ということである。

特に仕事とお金というのは切り離しにくい。

そのあたりの話も聞いてみたい。

dag.

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