ぼくってだれ

ちょっと調べてみたら、いぬじんとしてブログを書き始めてもう6年がすぎている。

はじめは正体不明のおっさんとして毒にも薬にもならないことを書き始め、まあ6年のあいだに多少の変化はあったような気もするけど、正体不明のおっさんとして毒にも薬にもならないことを書き続けていることに変わりはない。

なので、もうそろそろ正体を明かしてもいいのではないかと思いはじめたのだけど、いつのまにか、いぬじんというマスクが、下にある本来の顔と微妙にくっつきはじめていて、無理に引きはがそうとするとちょっと痛そうである。

思っていたよりも、くたびれた犬の皮が肌になじんでしまっているようだ。

はっきり言えば、これまでの自分は、広告会社の元コピーライターで、色んな業界のコミュニケーションに関わっている自分、というのが「正体」で、その上にとぼけた犬の皮をかぶって、しかしいつでも脱げるんだからな、と気張っていたように思う。

ところが今となっては、会社で働いている自分よりも、他のサイトでちょっと寄稿させてもらったり、育児について素直に思ったことを書いてひどいコメントを集めたりしている犬の暮らしのほうが面白かったりして、おまけに書いている中身も仕事の経験よりも普段の生活の経験のほうが喜ばれたりしているうちに、どうもぼく自身が犬の顔のほうを「正体」と認識してしまうことが増えている気がする。

現に、いぬじんを始める以前から旧知のぺんぎん氏からも「育児について聞きたい」とリクエストをいただいていて、それは広告会社で働いているぼくではなく、ブログを書いているいぬじんとしての見解を聞かれているような気がして、いやぺんぎん氏にしたらどっちでも構わないのだけど、一体自分の「正体」はどっちなのだろうかと、ちょっとわからなくなっている。

ぺんぎん氏の質問に答えるなら、週末はぼくなりにできることをやっていて、妻が疲れているときは家族の分の食事を用意することもあるし、洗濯、風呂掃除、トイレ掃除、保育園の送り、子どもの宿題チェックなど、まあなんでもやる。

やるけど、基本的にぼくの妻は仕事もしっかりやる上に、料理も家事もぼくよりはるかに上手だし、責任感も強い。

わが家では妻がリーダーであり、ぼくが補佐である。

しかしまあ妻だって完璧ではないし、平日バタバタしているぶん週末はエネルギーが切れているので、ぼくができるだけ色んなことをやるし、平日もできるだけ早く帰宅して、やることをやっているのである。

できることを、できる人がやる、というのがわが家の基本方針である。

保育園に通っている下の子だって自分の脱いだ服は自分でたたませるし、食事をしたらテーブルの上をふかせるし、他の家族のぶんの食器も持っていかせる。

そこには役割とかスタンスとかはなくて、できる人がやらないと物事が進まないのだ。

もうちょっと言えば、男だからとか女だからとか、親だからとか子どもだからとか、いぬじんだからとか広告会社のサラリーマンだからとか、そういうことにこだわっていると、生活というのは成立しないのである。

さらにもうちょっと言うならば、ぼくはこれまで長らく役割とかスタンスとか立場とかポジションとかそういうことにばかりとらわれていた。

広告会社に入社しないと、大きな企画の仕事はできないと思い込んでいたし、コピーライターにならないとクリエイティブな仕事はできないと思い込んでいたし、父親としての威厳が保たれないと育児も家事も気分よくできないと思い込んでいたわけである。

ところが実際は、すべてのものに明確な境界などない。

大きな企画の仕事だって、本人の努力次第でチャンスを手に入れられる時代だし、コピーライターになんてならなくてもこうやって色んな人に直接文章を届ける手段がいくらでもあるし、父親だろうと子どもだろうと家の用事はみんなで力を合わせないとどうにもならないのである。

そんなわけで、果たしてぼくの「正体」はいぬじんなのか、寒さにヒーヒー言いながら洗濯物を干しているおっさんなのか、もっともらしい顔をしながら打ち合わせで持論をぶっているサラリーマンなのか、そんなことはどうでもいいような気がしてきた。

というわけで、今度はぼくからぺんぎん氏に聞いてみたいのは、育児と家事をしてみて、どんな気づきがあったのか、あるいはなかったのか、ということである。

と聞いてみた次の瞬間、つい自分のことを答えようとしてしまうが、それではせっかくの往復書簡の意味がないので、また別の機会に。

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