時間を奪い返せ!

500日あったら何をするかなあと思ったのだが、微妙な長さである。

しかし、たとえばこれが自分の人生に残された日数だとしたら、けっこう意味合いは変わってくるようにも思う。

結局、人間というのは期限とか締め切りとか、あるいはその締め切りから逆算してあと何日とか、そうやって追い込まれないと具体的な時間の長さ(あるいは短さ)をイメージできないのかもしれない。

もうちょっというと、はたして本当に人間は時間の長さというものをどれぐらい認識できるものなのだろう。

TVCMを作ってきたので、15秒と30秒はいちいち秒読みしなくてもだいたい近い時間を言い当てることができるが、60秒はけっこう難しかった。

カップラーメンは3分から5分ぐらいだが、これはじっと待っていても時計を見ないと当てられない上に、何かをしながら待っていると、簡単にタイムオーバーで麺がふにゃふにゃにのびてしまっている。

となるともう500日なんていう時間はまったくもってぼくの身体でもって認識できる長さではないのである。

にもかかわらず実際は500日なんて、あっという間にすぎてしまったりもするので不思議である。

何をごちゃごちゃ言ってるかというと、この点こそぼくがすごく悩んでいたところで、例えばひとつの商品について明日までにキャッチコピーを考えてこい、というような仕事の場合は、この1日は割と体感できる1日で、そのあいだは、まあ食事をしたり事務処理をしたり通勤したりとやらなきゃいけないことはやるけれども、他の時間はひたすらコピーを考えることに集中し、ああもう3分しかない、あと1案だけでも考えよう、と必死に取り組むし、そのときぼくにとっての時間は非常に貴重で、少しでも無駄にしたくないものとなる。

しかし、毎日とんでもなくつまらない作業をしてください、だけどこれを3年間続けていたら、ほんのちょっとだけ給料が増えるよ、と言われたときの1日というのは本当に退屈で、しかしミスは許されず、時間というのは早く過ぎ去ってほしい、憎しみの対象となる。

実際は、ぼくらはその両方の感情を時間に対して抱きながら暮らしている。

それがぼくは耐えられなくて、つまりすべての時間を自分は夢中になってすごしたいのに、年を取るごとに早く時間が過ぎてほしい、過ぎてほしいと願っている自分がいることにひどくがっかりしたのである(いつも時間がない!とかわめいているにも関わらずだ)。

それで、まあ色々と試行錯誤をした結果、ぼくが得たのはこういう結論である。

ー 自分の時間を自分で決めること ー

そんなこと神様でもない限り無理なんじゃないかと思うかもしれないが、いや、実はできるのである。

つまりは、仕方なく出席しなきゃいけない会議も、黙って取り組まないといけない作業も、会いたい人と会う約束も、そしてひたすらぼーっとする時間も、全部自分の時間として手帳に(あるいはスケジュール表に)書き込んでいくのである。

大事なのは、これを他人から決められたとおりに記入するのではなく、自分の時間としてとらえなおし、自分の手で入力することだ。

たとえば、エライ人同士が話し合うのをただじっと見つめるだけの会議が2時間あったとしたら、それは自分にとってはどんな時間にできそうかと考えて、それを書き込むのである。

その2時間はエライ人に、前から言いたかった自分の意見を伝える機会になるかもしれないし、あるいは終わった後に頼み事をするチャンスになるかもしれないし、あるいは議事録とるフリをして別の用事をする時間に割り当ててもいいのである。

そうやって、一度は召し上げられた時間に意味を与えることで、時間を自分のものへと取り戻す。

自分のものへと取り戻す、という話で言うと、時間もそうだが言葉もそうだなと思うけど、これは長くなるのでまたの機会に。

ぺんぎん氏の時間についての感覚も聞いてみたい。

Dag.

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