阿呆には阿呆の生き方がある


種火である。ただ、これまでになく大事に育てようと思っているものである。そのために、カネをつくり、生活基盤をつくり、発信基盤をつくり、いろいろと少しずつ歩みたいという思いでいる。

ぺんぎん氏の静かにエネルギーが高まってきている様子を見て、すてきだなあと思う。

思うに、ぺんぎん氏は性根がまっすぐなのだ。

どうも自分は、本当は野蛮で下品な本性なのに、それを隠そうとしたり物分かりがいいような顔をしたりするきらいがある。

それでずっとその野蛮で下品な自分を隠し続けられるならいいのだが、だんだん我慢ができなくなって暴発することが多く、しかしその暴発の仕方が、中途半端に社会性を保とうとする結果、とんでもなく気持ち悪い感じになるのが常である。

そういうねじ曲がった性根なので、それをちゃんと自分自身でわかってやらねばならぬ。

いったい、ずっと自分が関心を持っている主題というのは、おおむね人間が理性というものを獲得して以来、丁寧に築き上げてきたものを否定しようとしたり、傷をつけようとしたりするものばかりのような気がする。

アイデアを生み出すために論理を否定したり、現在という時間に夢中になる重要性を主張するために時間による計画管理を批判したり、そうやって人間の過去の偉業を攻撃することによってしか自分をアピイルできないあたりに自分の力のなさを感じる。

本当に自分がやりたいことは、そういった素晴らしい偉人にツバを吐きかけることではなく(そんな権利はさらさらない)、本来の卑しい性根をさらけ出して、くだらん人間だからこそできる、人が軽蔑するような道化をやって、阿呆ならではの役割を果たすことだ。

フウルプルウフというがあるようで、フウル、つまりはどんな阿呆が使っても危険が発生しないように設計することだそうだが、ぼくの役割というのはこのフウルなのだと思う。

ああなっちゃいけない、ああなったらもう終わりだ、というギリギリアウトのライン、これは誰かが作らないとどうにもならない。

まあその役割を果たすということは、人からバカにされ、笑われ、あるいは恥ずかしすぎて直視もできない、そういう人間になるということだが、どう考えても自分は昔からそういうほうが向いていた気がするし、それを無理にかしこぶって危険な領域からそっと離れて、周りの本当にまともな人間たちと同じことを考えているようなフリをして潜伏している。

もうそういう生き方というのはやめて、阿呆は阿呆なりの役割を果たしましょうと、まあそれが最近思うことだな。

一体全体そんなわけで、dag.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?