イラスト

エアフォース1 その8(終)

 靴箱を開けると、かすかに潮の匂いがした。
 
 波のささやき。その響きに合わせて舞い遊ぶ砂粒。裸足をくすぐる感触。きらめく漂着物へと近づく足音。すぐに消えてなくなる足跡…。
 
 最後に海に行ったのはいつだっけと、彼女はスニーカーを取り出しながら回想してしまう。海馬に散乱する写真の中から海の写るものだけを選り分けて、時系列に並べてゆくのだ。そうして彼女は2年前、鎌倉に旅行したときが最後だなあと結論付けたのであった。つまり、彼女の靴に海のかけらが付着しているはずはないのである。その真実に思い至った彼女は訝しみ、右手にぶら下げた一足へ視線を向けたのだ。
 
 「あ」という、かすかな呟きに続いて、「え」という間抜けな声が漏れる。前者は両方の靴紐が解けているのを見つけたとき、後者は靴紐が解けていたのではなく、何かに切断されていた事実に気付いたときに発せられた音であった。そしてダメ押し、二度目の「え!?」。その音とともに彼女の左の鼻腔からは感嘆符が、右の鼻腔からは疑問符が同時に抜け出て、シャボン玉のように宙へ浮かび上がる。それらが天井に触れて割れてしまうまで、彼女はずっと固まったままでいた。
 
 度重なる不思議に、彼女の頭は稼働率を上げる。思索に耽るそのしかめ面からは、冷却用ファンの唸り声が漏れている。うーんと唇を尖らせるも、やはり合点がいかない様子である。密室内のスニーカーの靴紐が3か所も切断されているのだ。犯行の手段も動機も不明なうえ、状況証拠も少ない。むむ、これはお手上げであるなと、彼女の中の名探偵はパイプをくゆらせ帰ってしまった。引き止めるべくもなく、事件は迷宮入りとなったのである。
 
 人々は、原因のわからない現象を「怪奇」とし、それを引き起こす「妖怪」を作りだすことによって数々を説明してきた。自然科学のなせる時代に生きる彼女も、そうするより仕方がなかった。
 靴箱を住処とし、靴紐にいたずらをして楽しむ妖精。毛は長く緑色で…などと妄想を始めると、不安な気持ちもかたちを変える。幸い自転車で来ているから、靴紐が結べなくてもさほど問題にはならないし、色付きの靴紐に変えるいい機会でもある。あの子に話したら何て言うかなあなどと考えながら、もう靴を履こうとしている。ひょっとすると、まだ「妖怪」が潜んでいるかもしれないのに!
 
 「進路内に異物を検出。接触を回避できません。」これはスニーカーへと潜りこませた右足の、つま先から発せられた異常信号である。責任者たる彼女の頭頂葉は、迅速に状況を把握する必要があった。くつ下に引っかかる感触があり、「異物」はざらざらとした物体であることがわかる。指で押してみると、石のように硬い。どうやら毛玉の妖精ではないようだ。それならば一体何が!と足を引き抜こうとした刹那、その異物は牙を剥いたのだ。「異物」から見れば彼女のつま先こそが異物であり、それは正当な防衛だったともいえる。彼が中指にがぶっと噛みついたとき、彼女は「ひゃあ」と小さな悲鳴を上げたのであった。
 
 彼女は脊髄反射でもって膝を縮こめる。その俊敏な動きに付随して、右足がサルベージされる……未だに指へ喰らい付いたままでいるその異物を引き連れて。彼女は恐怖と好奇の入り混じったまなざしで、それを見た。それは平たい甲殻でその身を包み、4対の脚を生やしている。黒っぽい背面とは裏腹に、おなかは白い。なんと、靴奥に潜んでいた「異物」は小ガニだったのである。彼は赤みがかった鋏で彼女の足指を掴み、懸命にぶら下がっている。所在なさそうに開くもう片方の鋏は、スニーカーの側面にあしらわれたブランドロゴとよく似ていた。
 
 靴下から引きはがされ、彼は指先につままれている。両腕を上げ完全降伏の様相を示す甲殻類を見て、彼女はふふふと口角を上げる。「海が香ったのも、靴紐を切ったのも君の仕業だったのね。挙句の果てには私に鋏を向けるなんて、やんちゃっ子にはお仕置きが必要だわ。」とでも言いたげな笑みである。そして先ほどの靴箱を再度開けると、彼をそこへ閉じ込めてしまった。禁錮刑を処した執行官は、いささか満足げな表情で彼の独房を眺めている。すると彼女は新たな怪奇を発見してしまった。x軸にいろは仮名、y軸には漢数字が振られているこの靴箱において、彼のいる独房を表す標識は「か二」なのである。驚いて再度牢を覗いてみるも、そこには磯の匂いが漂うだけであり、彼の姿はもう何処にも見当たらなかった。
 
 会計カウンターから向けられる、不審な利用客に対する懐疑の視線を感じた彼女は、恥ずかしくなりそそくさと店を後にした。帰り道に彼女が鼻歌を歌わなかったのは、「か二」の左隣にあった「わ二」へ靴を入れたらどうなるかしらとばかり考えていたからである。そしてそのときは、お気に入りのNIKE air-force1だけは絶対に履いて行くまいと、心に決めたのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?