コロニー その5(終)

 ずじゃっ。靴底が湿った砂を叩く。間に挟まれた風船は音もなく割れた。突き立てた脚に体重を乗せ、彼女は割り切れない感情を単純明快な悪口に込めて放つ。

 「……のばか!」

 その一撃は海原を抉りながら、水平線めがけて一直線に進んでゆく―――なんてことはなく、数メートル先に落っこちた。思うように飛距離が伸びなかったのは、もとより小さい声量の所為だけではなかったように思われた。
 不運にも二度目の死を遂げることとなった“彼”の遺体には、靴底のギザギザ文様と泥濘のデコレーションが施されていた。それなのに、その無残な作品を作り上げた張本人たる彼女の両目には、滲んだ風船とぼやけた砂浜が映るばかりなのだから。

 ほったらかしにされていた缶ビールはもう冷たくないし、弾けるしゅわしゅわもとんずらをかましている。彼女はそのぬるくて苦くて少し酸っぱい金色をひと思いに飲み干すなり、ぶるぶると体を震わせた。よほどおいしくなかったのだと見受けられる。しかめ顔で舌をべえっとしたら、ついでにあくびも出た。このまま浜辺でふて寝しちゃいたいくらいのへそ曲がりな気分だとはいえ、もうおとなだもの、そういう分別はあるつもりでいた。だからといって、ほかにやることもないのだけれど。
 静かな海に目をやれども、いまの彼女の心には反作用しか生じ得ない。やがて彼女は諦めたように目を閉じた。

 海鳥が朝を告げ、この町も眠気まなこをこすり始める頃。パンに挟まれた彼女は、サンドウィッチの具としておいしい朝食に仕立て上げられているところであった。締め付けられる両腕を引き抜き、覆いかぶさったしっとり食感を押し広げる。差し込んだ眩光にひるみながらも彼女は目を見開く…そこに映っていたのは、恐怖にゆがんだわたしの顔だった。鏡のように磨かれた銀のナイフが今にも、彼女を包み込む正方形を、ふたつの二等辺三角形へ分断しようとしているのだ。いやだ、やめてと叫ぶや否や、彼女は夢から覚めた。
 なんとかバラバラ死体をまぬかれた彼女であったが、ほっと一息つく暇もなく、再度目をつむる運びとなった。あのナイフと同じ輝きが、両の瞳を焼いたのだ。まぶしくて顔を背けると、首に生じた痛みが波紋みたいに伝播する。体育座りに固まった体からの、苦しいのシグナルだ。彼女はそれをなだめるように伸びをしながら、ゆっくりと瞼をあける。
 目に飛び込んできたのはありふれた、よく晴れた朝の海辺の景色だった。見渡す限りの青色のなか、存在感を放つ白いかたまりがある。どデカい入道雲が水平線の上に、もちろん下にもくっきり映っている。空の色を借りた海原は陽の光を浴びて、きらきらと光っている。その海上の星団の瞬きが、光に慣れたはずの彼女の視界の安寧を脅かしていた。

 (「来てよかったな。」)

 彼女はまぶしさに目を細めながら笑う。切り傷みたいに細くなった両目の目じりからは、ミミズ腫れみたいな泣き痕がうっすらと残っていた。それはもう、毒クラゲの触手にやられたみたいに。赤く腫れた目元に力を入れたから、少し痛かった。

 <余談> 昨夜、彼女は“彼”の夢を見なかったが、それは気持ちの整理ができたとか、踏ん切りがついたことを暗示するものではない。質の低い睡眠に体が耐えかねたうえ、太陽光を反射した漣が眠りを妨げた結果、あの悪夢が上映されたのである。現に、彼女が踏み潰したカツオノエボシは晩のうちに流されていた、なんてことはなく、定位置で無残な姿を保っている。
 ここで言える確かなことはふたつ。人間は昼行性であるということ。そして、カツオノエボシの猛毒は死してもなお残り続け、その亡骸に触れたものを刺し、侵すのをやめないということだ。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?