エアフォース1 その4

 「ちーちゃん、ごはんだよ。」彼女がそう言い終えるより先に、ちーちゃんと呼ばれたその白猫は、体色より少し濁った白の陶器に顔を突っ込んでいる。器の内容物をかりかりとむさぼる様子はいかにも無防備であるが、小さな口から覗く鋭い犬歯はその画にそぐわず野性的に艶めいている。そんなふうに観察してみて、私も食事中は無防備な姿をさらしているのかなあ、などと彼女は思うのであった。
 
 ぼーっと眼球運動を停止しているうちに視界の外でぽこっという音が鳴り、電気ケトルが任務完了を告げる。彼女はケトル内のあつあつを紺色のマグになみなみと注ぎ入れると、その中に黄色い袋から取り出した、かぐわしき紐付きピラミッドを沈めてしまう。小さな金字塔は海水を吸い上げ、その身に凝縮した琥珀色を載せたそれを吐き出すという恍惚の呼吸を繰り返しながら、灼熱の海の最深を目指しひっそりと潜っていく。やがて緩慢な動きでもって目的地へと着陸したそれが静寂とともに鎮座する光景は、さながら海底都市のようであった。
 
 彼女はというと、琥珀色のアトランティスのことなどは目にも留めず、狩猟に精を出している。戸棚→冷凍庫→冷蔵庫→再び冷凍庫と、今回の獲物である白いちゅるちゅるの痕跡を、自身の記憶を頼りに辿ってみたわけなのであるが、収穫は3日前に消費期限を迎えた灰色のちゅるちゅるだけであった。食べられない獲物に興味はないといった具合でその灰色をゴミ箱へ放るや否や、少々荒っぽい音を立てながら狩りからご帰還し、もといた椅子へ腰を下ろしたのであった。
 
 彼女はすっかり赤褐色に染まってしまった海底都市につながる紐を引き、指先一つで古臭くけったいな遺跡を取り除いてしまうと、かなり濃いめの紅茶に口をつけ、「これ味変わったよね。」とお決まりの独り言をつぶやく。彼女がいつもそう思ってしまうのは、彼女が上手に紅茶をいれられたためしがないことに起因している。ある時はじっと待てずに too fast、ある時は淹れたことを忘れていたため too late、といった具合なのである。今回は後者のケースであり、必要以上に香りと味が強くなったなあどと感じている彼女は、製造会社が消費者に行き届いたパッケージから取り出される茶葉の味を変えてしまう超能力など持とうはずもないことには気づかずにいる。
 彼女が楽しく生活していくにあたって、そんなことを思い浮かべる必要性などありはしないのだ。ただ味が変わった、彼女にとってはただそれだけのことであり、回答を求めることもなければ、紅茶に対してそこまでの関心も抱いていないのである。
 
 ぬるくなった赤褐色を飲み干してしまってもまだ、彼女のおうどん食べたい欲求はそこにあった。「洋」の濁流に飲みこまれてしまったと思われた白くて細長い「和」の清流は、途絶えていやしなかったのである。それが、食事を終えお気に入りの窓際に佇むちーちゃんの揺れるしっぽを見たからかどうかは定かではない。ともかく、頭の後ろのほうでその奇跡を目の当たりにした彼女は是が非でも、つややかなる白きその清流をこの舌で味わわんと心に誓ったのであった。
 
 自転車を5、6分ほど走らせたところにある和食料理店へと目標を定めた後の彼女の行動は、猫とも見まごうほどの俊敏さを伴ったものであった。洗顔、お着換え、お粧し、整髪、眼鏡、を流れるように、元来寝坊しがちの彼女が平日の朝に見せるような動きを、休日のお昼にも披露してくれたのである。そして「出かけてくるね。」と丸くなる小動物に声をかけたあとダウンジャケットのファスナーを頂点まで引き上げた彼女は、お気に入りのスニーカーを履いて部屋を飛び出したのであった。

その5に続きます。

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