エアフォース1 その6

 「花見」という語における「花」とは一般に、冬を終わらせんがために咲く彼の桃色の群れのことを指す。凍てつく大気が染め上げた白の風景に感傷を覚えたのも束の間、それに飽いた我々の苛立ちが、色と熱への渇望が、その桃色を咲かす。

 今、彼女の視線の先にある花もその意味での「花」であるのだが、それは桃色ではなく鮮やかな朱色を放つ。五枚の花弁を携えた小さな朱は、黄金色の湖に浮かぶおうどん島の上に咲いている。白き孤島には他にもいくつかの色彩が見られるが、その朱に勝る輝きを持つものはない。
 朱い「花」は出汁に染み出した脂をその身に纏い、妖しげにきらめいている。煮えた湖から立ち上がる湯気はその映像を曇らせ、更なる摂食本能を呼び起こす。彼女は眼鏡に張り付いた蒸気に構うこともなく、両の掌を軽く合わせ、生命のバトンを譲り受けるための儀式をはじめている。呪文の一文字目「い」が発せられた時点よりフライングスタートを切っていたお箸は、五文字目「ま」のあたりで桜人参をつまみ上げている。最後の六文字目を発音するために紅い唇がすぼめられたが、桜はすでにその艶めくグロスの奥へと運び込まれていたようだ。そして「す」の音が聞こえると同時に押し潰された朱い桜は、その身に吸い込んだ出汁をほのかな甘味とともに吐き出しながら散った。

 ちゅるちゅる、もぐもぐとお口を忙しなく動かして、彼女はあっという間におなかの中をあったかいで満たしてしまった。麺のもちもちでは飽き足らず、デザートにわらび餅を注文し、至福のひとときを噛み締めている彼女の表情はおもちのようにとろんとしている。その蕩けた頬の内側で舞踏会がはじまっていることなど、まるで知らないといったふうに…。

 ダンスホールもといお口の中に招かれた客人たちは皆、黒もしくは黄色を身に纏っており、これが本日のドレスコードなのだと推察される。黒色の方はとろみとつやのある生地で、柔和で女性的な印象を感じさせる。それと対照的に、黄色の方はざらついた荒い仕立てであり、骨張った男性の体つきを想起させる。
 歪ではあるがこれも舞踏会、男女が手を取り優雅に足踏みをするのだ。つまり、一見不釣り合いに思える黒と黄が目線を交わし合い、くっついたり離れたりという営みが、今まさに行われようとしているのである。

 上下のエナメル質がカチカチと刻み始めた4分の3拍子はリズムキープに難あり、といった有様であるが、それに合わせて二色の甘みは混ざり始める。この過程を経て彼女の頬がゆるんでしまったわけなのであるが、人間世界において黒と黄のまだらが示す合図は「⚠︎」、たおやめぶりの黒とますらおぶりの黄の邂逅は、ある種の危険を伴うのだ。

 まずはじめに、黄が黒へと接近を試みる。黒はその粘性の身体で黄を受け入れ、共に踊りはじめるのだ。ペアとなった二色が互いに同程度の熱量でもってステップを踏んだ場合、黒と黄は一体化し新たな色を生む。厄介なのは、熱量のバランスに偏りのないペアができる確率が非常に低いことである。調和できずにちぐはぐな歩調で踊る男女の靴音は食感的不協和音となり、踊り場たる口内を艶かしく刺激してしまうのである。

 黄の粒を絡めた黒い雫の群れは抹茶入りのもちもちに纏わり付き、とろとろで、それでいてざらざらの「甘い舌」を形成する。高揚するフロアの熱を帯びたそれは、舌の先から犬歯の裏側までをゆっくりと焦らすように撫で上げ、彼女のおくちを溶かしてゆく。対象を蕩かす濃厚な甘さは自らの体をも溶かしてしまい、やがて寂しい余香を残していなくなるのだ…。

 彼女を駆り立て、この店までその身を運ばせたおうどん欲求と、それを上書きしたお砂糖欲求。そのどちらもがすっかり治まってしまった様子は、「ごちそうさまでした。」と呟いた後の数秒間、閉じることを忘れていた両の唇が語るとおりである。それらをぽってりと光らせていた紅色はいつの間にか居場所を変えて、左右のほっぺたを染め上げている。それはあつあつを飲み食いして体温が向上したためなのか、あるいは文字通りの甘美な刺激に彼とのキッスを思い出してしまったからなのか———真相はYummyの中だ。

その7へ続きます

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