コロニー その4

 風船をつくる子、生殖器官をつくる子、猛毒の触手をつくる子…。たくさんのヒドロ虫がそれぞれの役割を果たすことによって共に暮らしている。もちろん口や胃をつくる子もいて、一匹の“カツオノエボシ”として栄養を摂取しているわけだから、はぐれ“ヒドロ虫”として群れを離れることは叶わぬ願いだ。純粋な「個」として生きていくことが出来ないヒドロ虫の、その”群体”の大群を眺めながら、彼女は思う。

 (「わたしも“群体”だな。」)

 なにも彼女は「細胞からなる人間」を「ヒドロ虫からなるカツオノエボシ」に重ね合わせたわけではない。高度な“群体”と多細胞生物の境界がいかに曖昧であれど、かの古傷がそれを峻別さしめるのだから。彼女がその身に感じた“群体”はもっと観念的なものであった。

 わたしのなかの“わたし”。それは人格とか意識だとかいう名前で呼ばれるもの。無数の記憶や経験の集合体であり、わたしがわたしである証。柔い月光に照らされるばかりのカツオノエボシたちが、今の彼女にはどんなに澄んだ泉よりも“鏡”であった。像は結ばずとも、浮き場所を失った風船のひとつひとつが、“わたし”という“群体”を構成するいくつもを映し出していたのだ。

 あの風船にはお母さんが、そのとなりのにはお父さん。こっちには幼馴染のこうくんや、親友のさよちゃんが。いろんな人の気持ちや言葉が“わたしを”紡いでいる。悲しかったこと、嬉しかったこと、何気ないこと、覚えてないこと。そのすべてが“わたし”。昔読んだ漫画のキャラクターや、お気に入りのミュージシャンも映っている。心に刺さったフレーズも、すり抜けた文字列もおなじように、“わたし”をつくる。わたしが関わりを持った人間のすべてが、カツオノエボシのなかにいた。

 もちろんその中には、このささやかな逃避行の一因となった“彼”も含まれているわけなのだ。その存在とそれに纏わる記憶の忘却を掲げてこの渚へやってきたはずなのに。あろうことか“彼”は、彼女のいちばん近くに転がる風船の中で微睡んでいた。

 (「…。」)

 彼女は知っていた。“わたし”という“群体”を形作るのは、わたしの好きなものだけではないと。だって苦手なあのセンパイも憎たらしいあのコも、遠くの風船に映っていたんだもの。だからこんなことをしたってなんの解決にもならない、ということに関しても十分にわかっていたはずなのだ。しかしながら、不意に現れた小悪魔を追い払ってしまえるだけのMPは、彼女にはもう残されていなかった。
 彼女は“彼”の写っていたカツオノエボシのすぐ傍まで寄ると、大きく息を吸い込んだ。そうして振り上げられた右足は直下に見定めた標的に向け、その影を落とすのだ。

 彼女の右足は撃鉄だ。肺に溜めた空気を言葉に変えて撃ち出すため、雷管たる風船を叩くのだ。その衝撃が感情という名の装薬に点火すると、言葉の弾丸が射出されるという構造である、なんて説明している間にもう、彼女はは心の引き金に指をかけていた。

その5に続きます

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