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「なかったことにしない」にこだわる理由

編集者としてどんなものが作りたいのか?

 そうきかれて答えるのはいつも、「アーカイブ」についての話だった。取材した相手の人生の転機や、その人が周囲からどう愛されていたか、その街の歴史、取材した日のその人がどう見えたか、その人は何に愛着がある人なのか……向き合えた個人や向き合えたシーンのことをどうアーカイブできるか、ばかりをよく考えている気がする。

 かっこいい音楽に詳しいわけでも、見たことのない映画への憧れが強いわけでも、人と比べる必要のないくらい美意識への自信を強く持っているわけでもない、そんな自分の中にずっとブレずにあるのが、「ここにあった出来事や気持ちが、なかったことにならないといいな」という願い事だった。

 そもそもメモ魔の性分を持っている自分が、残すことに興味を持つのは自然な成り行きだったと思う。顔を付き合わせた人が話してくれた経験談や“いままさに考えていること”を聞いた時に、「いまのはいい話だったな、忘れてしまうのは勿体無いな」と思うのは当たり前かもしれない。それでも、メモではない別の形に作り直して残そうとすることには理由があるはずだ。それは、昔見たアーカイブ的な読み物から、自分自身が何かを貰ってきたからだと思う。

 紙に書かれた「よかったシーン/よかった話」から何かを得てきた。雑誌や本を読むのは好きだけど、知識や知恵を着実に増やしてきたかというと、あんまりそうは思えていない。論理や歴史や哲学や……というよりも、「世の中にはそういう時間もあるんだな」というぼんやりとした寛容さというか、見たことのないものには霞がかかっているだけで、その先に何かが実在するんだな、という感覚のようなものを貰ってきたのかもしれない。文章を読むことで、世の中や身の回りに起きた、自分では想像できていなかった出来事や意見に対して、「そういう可能性もあるのか」と思えるようになっていた。

 そういうものは時々自分の人生に顔を出して、自分の身に起きたことを納得するための手助けをしてくれていた気がする。昔の仕事先で「兵隊が欲しいだけだからな」と言われたことも、いま思えばその人は仕事と人生を切り分けて話す人だったんだ、と思えるし、街に関わろうとして大きな反発を受けた時には、「この人たちが大切に数十年関わってきたまちに、見ず知らずの若者が急に関わろうとすると抵抗があるよな」ということだったり、「後から関わりはじめることと、後乗りして利益を得ようとすること、の違いは何年も関わり続けないと信じてもらえないことなのかもしれない」ということを思ったりした。

 出会った人の話や経験をアーカイブすることは本当に楽しかったけれど、「他人の人生を知る」ことの楽しさに溺れてしまっていた自覚もある。自分の人生について考えることよりも、他人の人生を知ることを楽しく感じている時期があった(今も完全に抜けられているとは思えない)。

 取材をして、その人の経てきた文脈や感情や選択、を知ることが面白くて、記事を書く仕事を通して、「いろんな背景の人と話せる生活」を維持してきたようにも思う。どこか、外に出て人と会って話をしている時間にだけ自分というものが存在して、ひとりでいるときには自分はどこにいるんだろう、と思ってしまうこともあった。それって編集者として以前に人として全く健やかじゃない! なので、もっと自分自身のことを話したり、考えていることを文章にする時間を増やそうと思う。

アーカイブ的な読み物は、世の中に起きたことを受け止めるための寛容さを生んでくれるものだと思う。そして、人によって必要な手がかりの形は違うので、できるだけいろんな形の「世の中と関わるとっかかりになる文章=アーカイブ的な読みもの」を作れたら……という気持ちは変わらない。いま書いているものがあまりにも抽象的でフワッとしているので、具体的な話をするために自分に向き合う文章を書いていく。隔週でも、もっと時間がかかっても、続けていれば自分の内面のアーカイブになるかもしれない。


自分の仕事とつくるものについて、考えるために書こうと思う。連載の名前はまだ決まらないけれど、続けられたらと思います。

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