〈いま〉を解体するために

過去と未来の間に立つ私達にとって、漂白され薄まっていく〈いま〉の感覚とは一体どこからきてなにになるのか。いかようにも変わる〈いま〉という時間の一点から、私達が見つめているものはなにか。

時間と言う概念がわたしたちを現在に固定させ、固定された合理計算の支配によって私達は生活をし、日常をこなしている。その合理計算の弊害により、私達の〈いま〉という感覚は引き伸ばされて薄くなり足元は既に脆弱と化している。

しかし、2011年3月11日の大地震により、私達の生活や日常は根本的に崩れ去った。元々脆弱化していた足元が崩れ去るのはいとも簡単なことだった。崩れ去った地点で様々な選択と決定があり、そのたびに人々は立ち止まり思考し衝突をした。過去、現在、未来という一直線の固定された視座に薄暗く影が落ちていることに気付いた人は少ないにせよ必ずいたことだろう。

単純な〈いま〉を浮き彫りにするだけの過去と未来であるならば、固定され沈殿したままの私達にしかなれないだろう。現在を省みてもこの一定した時間の流れこそが〈いま〉を漂白する根源であるのだから。

過去、現在、未来という一定の流れからの視点をやめ、過去と未来から〈いま〉を作り変えていかなければならない。過去の流れを受けて〈いま〉という地点から未来を変えるのではなく、過去や未来という新たな地点から〈いま〉を変えていく。私達は一本道の時間軸を歩んでいるのではない。過去から未来を前提にした〈いま〉があるのではない。いかようにも変えられる〈いま〉であるなら、過去や未来から変えられる〈いま〉でもあるはずなのだ。

先の大地震や原発、それらの諸問題を放っておいた私達自身の責任や、私達がこれから具体的な諸問題に対峙していくために、直線的な視座ではなく過去と未来で編みこんだ重層的な〈いま〉という視座から問題を捉えていくこと提案する。

〈いま〉を浮き彫りにするために、私はここで自分自身を掘り下げながら、どうにかしてこの問題を浮き彫りにしようと試みる。これは実験であり、私のための大切な一歩である。

#エッセイ

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