鉄塔

私の故郷は海沿いの小さな田舎町だ。4階建てのマンションに小さい頃から住んでいて、歩いて10分ほどで海まで行ける。海岸通りは刈り取ったようにきれいな弧を描いている。海岸通りの端には火力発電所があって、三本の大きな煙突が生えている。それらが子供を生むように山沿いに送電線が並んでいて、この町にはやたらと鉄塔がそびえ立っていた。山のてっぺんにはかならず鉄塔があったし、それはいつも私や町を見下ろしていた。

高校生まで鉄塔がそこにあるのは当たり前だった。大学に入り東京への通学が始まり、驚いたことに高いビルが連なるばかりで鉄塔なんて見当たらなかった。地元の駅に着いて家までの道のりを歩いている時、見上げると夕闇に明滅する鉄塔があった。それを見つめると、ああ帰ってきたんだと、いつも実感をした。駅を降りて家に帰るまでの道のり、どんな嫌なことがあっても気分が最低でも、変わらず山のてっぺんに鎮座してみおろす鉄塔は、無機質に糸を伸ばして、かならずどこかと繋がっていた。

通っている東京の街や、祖母のいた新潟の田舎町まで、線を伸ばして海沿いの町から遠く離れた場所まで繋ぐ。私はその線をたどりながら海沿いの町を出て東京に行き、そしてまた帰ってくる。鉄塔を見上げながら町に戻れば、暖かな灯りがともる家があった。母が温かい料理を作り、父が母の料理を美味いと食べて、私がその輪に混じる。そうしてその様子まで、鉄塔はずっと見下ろしているのだ。私の家を見下ろす鉄塔。

まるで一種のシンボルのように、変わらず見下ろしているそれは、この町のどこにでもあったし、そしていつまでも変わらなかった。これから先もかわらないし、昔から変わることがなかっただろうと、不確かな確信が胸に沈着している。

住んでいる土地というのは、一歩そこから出た時に故郷という言葉に変わってしまう。生まれ育った町は色を変えて違う地点から私を見ていて、25歳の私は違う地点でなにかを懐かしみながら東京で足掻いていた。東京からみる、色を変えた田舎町では、鉄塔が明滅して海が寄せて、母と父がそこで私を呼んでいた。鉄塔というシンボルは、故郷の母と父を連想させるに十分なものとなっていた。

屋根に降り積もる生活痕のように、静かに胸に沈着していく。山の上にそびえる鉄塔、そこに寄せては返す海の白波、母と父の穏やかな笑顔。私が私を語る上での不可欠な重要な要素。

あれはずっと私の中に住み着いて、そうして成長している。過去、現在、未来の時間軸など関係ない風に、現れた時からあのまま、成長しているのに変わらずいる。あれは私なのかもしれないし、まったくの別物かもしれない。わからないまま、私は鉄塔の詩を書いている。鉄塔には故郷があり、両親がいる。答えがないから、私は鉄塔の詩を書き続ける。

#エッセイ




もうちょっと頑張れよ、とか しょうがねえ応援してやる、とか どれもこれも励みになります、がんばるぞー。