見出し画像

妹と、Instagramでやり取りをすることが増えた。あの子はあたしと同じでアホだから、脈絡のないどうでもいい連絡を寄越してくる。小指がしもやけになっただの、彼氏の惚気だの、私が初任給で買った蟹で作った鍋が忘れられないだの。実家にふたりいた頃は、一触即発だったのに、目を合わせるだけで大喧嘩だったのに。3、4年会わないでいたら、今はいとしくてたまらない。なんて罪な女か。

少し昔の話をしよう。

今でこそ居場所が無いなんて、生きていく意味が無いなんて死にたいなんて言わないけれど、ほんの数年前の私は何も、帰る家すらも無かった。

包み隠すことも何も無いので単刀直入に言うと、虐待家庭で育った。毒親なんてものじゃない。死ねと包丁を向けられたこともあったし、というか毎日手を上げられていたし、私の好きなものから何から何までを否定されて育った。親と喧嘩になった日は、机も棚もひっくり返して喚いて、過呼吸を起こして気絶するように眠っていた。当時処方されていた精神薬で無理矢理眠る、それだけが続く日もあった。今でこそ痩せられないと嘆いているけれど、あの頃の私は45kgも無かった。もうだめなんだ、と急に糸が切れて、必要な物だけを車に詰めて、考え無しに実家を出た。妹たちとは勿論それきり会っていない。

私が、私でなくなる感じがした。常に視界の四隅が暗いような、綺麗なものを綺麗だと言えなくなるような。それでも、母さんが生かしてくれたから、今ここにいられているんだけれど、その話は過去のnoteにあるはずなのでよろしければ。

*
しばらく、車が家になる生活を続けた。時に、体を売る仕事をして日銭を稼いだり、名前すら知らない男の家を転々としたりもした。勘当した祖父母の家に上手いこと転がり込んだものの、あちらのキチガイ具合は底知れず、やはりここにいても死んでしまうとまた家を出て。

*

仕方がないと言えばそれまでで、あの頃の解決策なんか無い。けれども、どうしても、残した妹たちが気がかりでいた。あの家に、置いてくることしか出来なかった。頭のおかしい親族たちと顔を合わせる時、姉として守り続けることが出来なかった。姉らしいことひとつも出来ずに、何が「妹が可愛い」、だ。

妹に会いたい気持ちは確かにここにある。あなたのことを忘れた日は無いと、何も言わないで出ていってごめんと、伝えなきゃいけないことが沢山ある。けれども、情けなくてたまらなくて。かわいい子たちに何も出来なかった、高校生活をそばで支えられなかった。悔やんだってしょうがないのは分かってるけれど、どうにも出来なかったのも分かってるけれど、私は、ちゃんとあの子たちのお姉ちゃんになりたかったの。

でもいつか、心の準備と整頓が出来たら。
旦那がうちにおいで、と居場所を作ってくれたことを。家族ができたことを。だいすきな人たちのことを。人前で歌ってることを。私は、身に余るほど幸せだってことを、話したいの。
妹からの「会いたい」のメッセージに救われたことも。

そのいつかがいつかは分からない。来週かもしれないし、来年かもしれない。けれど、その日は必ず来るはずだから、待っていようと思う。遅くなったけれど、これからはちゃんとおねえちゃんになるんだ。

私は、もう充分しあわせ。もう、大丈夫よ。