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「偏差値」は本当に悪者なのか?

先般、私が受け持つ家庭教師の生徒募集案内をfacebookに投稿しましたが、もう1回自分の投稿を眺めた際にどうも座りが悪い気がして補足というか、自分の考える事についてもう少し言葉を足そうと思いました。


どこからか、某有名脳科学者さんのtweetが流れてきて「偏差値なんかやめてしまえ!」と憤られていると知りました。


このことについて、私は同意する部分もあるし、眉を潜めてしまう部分もあります。大々的に偏差値の結果を喧伝することで私の実績をアピールしたいという思惑はあるにはあります。しかし、それは偏差値が「統計資料として客観的に分かりやすいデータだから」という理由が主であり、偏差値を崇め奉るわけでも偏差値によって人間性を分類分けしようという気もありません。


客観的なデータを用いて、数学的に合理性のある結論を簡潔に伝えるという事は「人に何かを正確に伝える」という目的においてとても有用であるのは周知の事実かと思います。なので、偏差値を示す事によってその目的を果たそうと考えた訳です。


偏差値だけを考えると、これは単純に1つの統計指標にしか過ぎないので、それ以上の意味はありません。なので「偏差値をどう扱うか?」という運用方法についての議論がなされるべきであり、そもそも偏差値を導入することが間違っているという話ではないと思います。


世間で言われる「偏差値教育」という言葉自体にも、すでに何らかの恣意性が含まれている気がします。「偏差値とはあくまで1つの基準に過ぎないのに、その値を元に教育方法を区分けし、さらには生徒たちのヒエラルキーを無意識に構築している」というのが「偏差値教育」という言葉が示す内容なのではないでしょうか。そう考えると、偏差値教育という言葉は現在の教育の形をそのままに表現した言葉ではなく、随分と偏った志向性を孕んだものように思います。


私の主張としては、偏差値はあくまでも統計指標の1つであり、自分の志望校/志望学部に合格できるかどうかについての参考になるデータにしか過ぎないということ。そして偏差値の運用方法にこそ注意を向けなければならないし、偏差値の高低によってその人の人格までをも判断してはならないということになります。


結論としては至極当たり前な内容になりましたが、そういうシンプルな話を複雑にしてしまう事が世の中には多々あるよなぁと思う次第です。

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