掌編小説:ありえる


「待っています」

あなたはそう言って消えていった。
海の底へ、人魚姫の待つ深海の闇へと吸い込まれていった。
王子様、なんてあなたは周りからちやほやされて、小さい頃からずっと執事を侍らせて、
汚いものなんて一度も触ったことないような綺麗な手と、手入れの行き届いた小さな爪がいつも羨ましかった。まるで長野まゆみの小説に出てくるような耽美な憂をまとわせた男の子。

夕暮れの海辺で、波が打ちつける岩場に肩を寄せる男女。女のなびいた髪をなでつけて、自分の肩に引き寄せる姿が映画のワンシーンみたいで、わたしはつい見惚れてしまったのだ。
女が口ずさむ。隣にいる彼にだけ聞こえる小さな声で、二人で愛を確かめ合うみたいに。

その次の日だった。彼は彼女と一緒に海に沈んだと聞いた。
誰にも知られずに、ひっそりと消えたのである。
私は最後の目撃者として、沈黙を守ることにした。


んなぁ〜 んみゃお、みぃ、
猫、猫、猫。猫に囲まれるこのカフェで、私は心地よく彼の歌声を聴いていた。
「よぉ、王子〜。”ありえる”がそんなに恋しいか〜??」
常連に”ありえる”と呼ばれている保護猫は、かつてこのカフェの看板娘(猫)であった、らしい。
私がアルバイトを始める少し前に死んでしまったということであった。
“王子”は欠けた左前足の指を奇妙に庇いながら毛繕いを始める。
私はまだ見ぬ”ありえる”の姿を思い浮かべて、この小さな黒猫を愛おしく思った。

★「王子様」「なびく髪」「猫カフェ」
★ 物語のテーマは「待っています」

2024/3/21