雑感

 まさかこんな名前のnoteをしたためることになるとは、人生何があるかわからんね。

※このnoteは、とある方にお送りした文章を再構成したものです。一人称が不定であるのは故意によるものです。僕も、私も、俺も、全部ぜんぶ自分です。

 僕は今年で21歳になる。去年の後期から、鬱で大学を休学している。今は外にも出られるようになって、傍目には普通に過ごしているように見える程度には回復した。しかし、ふと大学の近くに出向いたところ、動悸が出てしまった。びっくりした。そういうわけで、まだ大学には戻れそうにない。
 ふと目に入った最終回でのとある場面に引き込まれて、『仮想儀礼』というテレビドラマを配信で一気見した。人生どん底のおっさん二匹が結託して、インチキ宗教で一発逆転を狙うブラックコメディ。結論から言うと、凄まじいものを観た。主人公の片割れである「矢口誠」というキャラクターが迎える"ある展開"に端を発するクライマックスでは、涙が溢れて止まらなかった。信仰とは、救いとは。その本質を、まざまざと見せつけられた。
 今の僕には人を救えるような力はない。むしろ頼むから救ってくれと言う側の人間だ。だが、いつかは誠のように祈ることのできる人間になりたい。そう思った。


ドラマ『仮想儀礼』第8話より。

 あれから、約1ヶ月。私は長い間(自分が)音信不通になっていた友人たちと、連絡を取り合うようになった。今は順番に彼らの地元まで会いに行って、一緒に散歩しながら、積もる話をしたりして過ごしている。たくさん迷惑をかけて消えてしまった私のことを、みんなは「おかえり」って、「生きててよかった」って、「死なないでいてくれてありがとう」って、暖かく迎えてくれた。優しく抱き締めてくれた。ああ、本当に私は恵まれてるな、と思った。彼らと再会できたのも、彼(この文章の元となるものを送った、とある人物)が最後の背中をポンと押してくれたおかげだ。本当に彼には感謝している。

 母親にも『仮想儀礼』を勧めて、観てもらった。すごく面白かったと言っていた。僕は観ていて気がつかなかったのだが、聖泉真法会(ドラマに登場する、主人公たちが設立した、でっちあげの宗教。)の集会所の外に出してある張り紙。その言葉が良いね、と言っていた。「心配事の9割は実際には起こりません」とか、「たった1人に嫌われても、大したことではありません(世界の人口は70億人)」とか。なんだかくだらなくて笑っちゃうけど、確かにそうだよね、と。

 俺は言葉を覚えるよりも前から音楽が大好きで、10年ほどずっとドラムをやっていた。自分のバンドが軌道に乗ってきたタイミングで大学3年になってしまって、就活とか、卒論とか、そういう難しい話題がなだれ込んできて、思い詰めてしまったのかな。と、今振り返ると思う。
 「家主」という日本のロックバンドがいて、彼らの曲に「SHOZEN」というとてもやかましくて素敵な曲がある。その曲を聴いて「これは俺の歌だ」とふと思い立ち、「そうだ、ギターを始めよう」と思った。
 悄然(しょうぜん)ー元気がない様子。しょげているさま。しょげてたって、しょんぼりしたっていいじゃない。すごく大きな声で、家主は俺にそう語りかけてくれた。もしよかったら、聴いてみてほしい。
 今はとにかくいろんな曲をジャカジャカ弾き語って練習している。俺ってこんな声出たんだ、とか色々気づくことがあって、とても楽しい。

「SHOZEN」収録の、家主『石のような自由』アルバムジャケット。


 
 そんな今でも、時折黒い塊が僕のそばにやってきて、嫌なことを囁いてきたりする。そういう時、薬を飲むのもいいけれど、ただ静かに祈ることが一番の特効薬だと、最近気がついた。僕は特定の信仰を持っていない。しかし、忍び寄る黒い影に対して、どこの誰かもわからない神様、あるいは仏様に手を合わせ、でっちあげの題目を唱えて、祈りを捧げる。そうすることで、その場をやり過ごす。そういう反撃方法を、僕は手に入れた。
 「祈るという行為には、明らかに意味がある」『仮想儀礼』を見返していると、ハッとさせられるセリフが本当に多い。改めて、素晴らしい作品に出会わせてくれたことに、深く感謝する。ありがとう。


莫逆の友 Y.M.へ


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