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安心安全に瞑想をはじめる

瞑想もエナジーワークも安心安全でなければならない。そして指導者は風のような存在がよい。

その確信は、今世での失敗経験がもたらしたものではなく、前世の経験かもしれない。具体的なエピソードは思い出せないのに、確信めいた信念があるときは、魂の記憶であることが多い。

この確信をもって、この10年間さまざまな瞑想法を試してきた。すぐに透視やチャネリングできたり、瞑想で富を得たい目的があれば、有効な瞑想法は確かにある。しかし魂の探求をはじめて、安心安全な方法にこだわると、おすすめできる瞑想法は本当に少なくなった。しかもカリスマ瞑想家ではなく、風のように立ち去る存在を探すとなると、なかなかいない。

そして、この流れで書くと、「私が主宰する講座の瞑想法がいちばんですよ」という宣伝につなげるのがおちだが、ここではその一歩手前にとどまり、(様々な方法で実践するの方にむけて)「いま私がしている瞑想やエナジーワークは本当に安心安全だろうか」という検証にお役立ちする記事「も」書いていきたい。「も」なので、もちろん宣伝も時にはする。

今日は「ほんとうの瞑想」をはじめたくなるとき、人間はどのような状態にあるのだろうか?という考察の種になる文章をシェアします。

人間は今日、多くのものを追い求めており、その偏極は情緒体かメンタル体のどちらかにある。偏極が完全に肉体に、もしくは完全に情緒体にある限り、瞑想を行う必要性は感じず、たとえメンタル体が活発でも、多くの変化と人生を経験し、多くの転生を通して苦楽を味わい、完全に低位我に没頭した人生の深みに沈み、それに不満を抱くようになるまで、瞑想をしたい衝動は起こらない。 

しかし、この衝動が起こったとき、人間は自らの思考をそれまでとは違ったものに向け、 未知のものに対して熱誠を抱き、自らの内にある霊と物質の二重性を認識し感知し、夢にも見なかった可能性と理想に接触し始める。成功と評判を得るような才能が利用できても、人生の満足を得られない地点に辿り着いたのである。

その点に辿り着くと、内なる衝動に常に駆り立てられ、苦悩は激しいものになり、自身を超えた何かに手を伸ばし、それを確かめたい欲求がすべての障害を克服する。人は内に向き、自らが来た源を探求し始める。そして彼は、瞑想し、熟考し、波動を強め始め、やがて瞑想の成果を収穫し蓄える。

アリスベイリー「秘教瞑想に関する手紙」より


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