脱ニヒリズム~ミメーシス・味わうこと・面倒くさいを歓迎すること~

サピエンス全史を読んだあたりから、ニヒリストになっていた(陥っていた)。サッカーを観ていたら、ある日、「人間が集まって球を蹴っているのを、大勢の人間が集まって見ている不思議な現象」にしか見えなくなった。球を蹴り合って、何が嬉しいんだろう・・・。しかし、その時は、そんな虚無に包まれた状態が嫌ではなかった。むしろ、そんな自分がどこかかっこいいとすら思っていたかもしれない。そんな状態が2年ほど続いて、ある本に出会った。

その日は仕事に疲れて、いつもより早目に業務終了した。すごく疲れていた。仕事をそれ以上続けられないと感じ、終了するしかなかった。どちらかというと、精神的に疲れた気がした。(仕事をしながら聴いていたコテンラジオが原因の可能性もある。この時聴いていたのはヒトラーの回で、ホロコーストの内容について聴いていたのだ。)Twitterをぼーっと眺めていると、「宮台真司さんがいいねしました」と書かれた知らない人のツイートが目に入った。この本が紹介されていた。タイトルを見て、これは自分が今読むべき本だと直感した。読んでいくうちに、自分が2年ほど陥っていたニヒリズム的状態がいかによろしくないかが分かった気がした。本当に何にも意味を見出せなくなると、全く動けなくなってしまう。極端に言えば、死ぬしかなくなる。この本は(もしかすれば)その直前まで迫っていた自分を救い出してくれた気がする。泉谷関示先生が想定する読者に、自分は非常によく当てはまった。今まで読んだどの本よりも、「自分に向けた書かれた本」だと感じた。

外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らすために消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で働いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ。

現代人の「空虚」は、「空白」「無駄」「無音」といったものによって実感させられやすい

自分にバシバシ刺さった。さらに、これから先どう生きればいいかもこの本が指し示してくれたように思う。

「意味」とは、「心=身体」による感覚や感情の喜びによって捉えられるものであり、そこには「味わう」というニュアンスが込められています。

心と身体をイコールで結んでいることにもハッとさせられたし、「味わう」という表現もまた、今の自分が見落としていたものだと感じた。ミメーシス(一体化)に近い気がする。岡潔の言う「数学なりきる」というのも同じかもしれない。宮台真司が『14歳からの社会学』で述べていた「感染」もまた同じ概念に思える。味わう対象、一体化し、なりきる対象、感染する対象は人間に限らない。

また泉谷先生は次のようにも述べている。

「意味」とは決してどこかで見つけてもらうことをじっと待っているような固定した性質のものではなく、「意味を求める」という自身の内面の働きそのものによって、初めて生み出されてくるものなのです。

「事実と価値は分けられない」ということだろうか。どこまでも主観的な世界で、いかに意味を見出していくか。それこそが生きる意味であり(メタ的ではあるが)、目指すところだと思う。そのためには「味わう」という意識が必要だ。加えて、

勘違いされることが多いのですが、この「面倒くさい」という感覚は「心」の声ではなくて、「頭」由来のものなのです。

これも非常に重要だ。今まで自分は、面倒くさいのはまさに「心」の声だと思っていた。精神的負担であると思っていた。しかし、どうやらそれは間違いで、「面倒くさい」とは、理性が変に反応してしまった結果生み出される、いわば虚像のようなものだ。飛び込んでしまえば、そこには自分を陥れるものは何もない。むしろそこにこそ意味が見いだせる。

この本のいたるところで、今までの自分の価値観が一変した。自分が読んだことも聞いたこともない本に、まだこんなにもたくさん教えられることがあったとは。自分がこれからやることなすこと全てに意味が見いだせる気がしているし、この先どんなことを味わって生きていくのか、楽しみで仕方がない。

つまり「愛」とは、単に他の人に向かうものだけを指すのではなくて、世界の様々な物事や人生そのものにも向けられるもので、対象に潜む本質を深く知ろうとしたり、深く味わおうとするものです。


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