注視された『関心領域』と無視された『Occupied City』

〔前略〕


 そして明日は『関心領域』を観にいくのだが、こちらに感心することはおそらくあるまい。鑑賞前からすでに私の評価は確定されてしまっている。この作品のコンセプトを聞き・さらに試写で鑑賞した者たちが吐いていた「賛辞」を聞かされた時点ですでに、 Monomeantmovie というハイデガー的英造語が私の頭の中に出来上がっていた。名付けて単意映画。『関心領域』は、映画のみならずあらゆる作品が(作り手/受け手を不可避的に持たざるを得ない以上は)抱えている両義性をほとんど全く廃した作品になっているだろう。
 オーウェルが自作で展開したのはスペイン内戦での経験に基づく知見だったが、彼の用語でいう「ダブルスピーク」をナチズム遂行において不可欠な道具として認識する向きは、20世紀時点の知識人層において広く共有・定着していたはずだ。「全体主義」的世界においては、内実と異なって偽装された麗句が求められると。しかし本当にそうだろうか? 私はナチス・ドイツの用語法ですら「語意の多義性(アフリカ文学論の用語でいえば「文彩」)」とは無縁であったと思う。「最終的解決」は最初から「大量殺戮」意外を意味していなかったし、「夜と霧」のような藝術作品由来の美辞も同様だ。それは「堪え難いほどの衝迫を欺瞞的修辞によって大衆的に受け入れやすいものとする」ようなオーウェル式の「ダブルスピーク」は質的に異なり、最初からそのように意味付けられたことが適切な用語法で扱われているだけである。それはさながら、性犯罪=痴漢の用語法に近い。痴漢は最初から性犯罪を意味していて、同義の異表現が複数存在しているにすぎない。本質的に monomeant な言辞は、そこで意味付けられたことをそのように(愚直に)提示するしかない。これは童貞の少年が頬を赤らめ股間を隆起させながら「お前なんか好きじゃねーし」と言うときの両義性とは全く別物だ。日本人が中国人に対して行った殺戮を「お兄ちゃん大好き作戦」と呼んでいたならばそこに両義性があったと言わざるを得ないが、もちろんそうなってはいない。つまり「最終的解決」や「夜と霧」などのナチス的用語法は最初から monomeant であることを前提していたのである。
 そして『関心領域』は、ヘス一家を注視し収容所の中は一切見せない(聞かせはする)コンセプトにより、一義性に基づく Monomeantmovie として一貫されていることだろう。すでに「実はあのシーンのあのセリフってこういう意味があるんだよ」的な薄みっともない言辞がネット上で広く共有されているようだが、馬鹿じゃなかろうかと思う。ユダヤ人からあらゆる財産を剥ぎ取った側の者がその遺品を横領している状況の一体何が「実は」なのか全く理解に苦しむ。はっきり言うが、『関心領域』に関して何か昂った言辞をネット上に垂れ流している類の輩どもには、「ところで、あなたがナチス・ドイツに関する文献を最後に読んだのは何年前ですか?」と問うべきだ。そして数秒以内に即答できない者は信用せぬがよい。『関心領域』のシーンが多義性で満たされている(がゆえに解釈が多様に存在する)のではない。単にナチズムについて何も知らない輩が、映画を発端とした検索行為によって諸史実を初めて知っただけのことだろう。多義性が存在しない世界には、嘘もまた存在しない。「最終的解決」は嘘でもなんでもない、ありのままの現実として展開された。「実は」などと口走ってしまえるのは、その史実の詳細を知らない人間だけだ。

 私が『関心領域』公開数日前に身を置いたのは、たとえば(今や強硬的シオニズム支持者として名高い)タランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を受け慌ててシャロン・テート事件を検索するような愚行ではない。それは第1に近所のGEOでスティーヴ・マックイーン監督『HUNGER』のレンタル落ちDVDを購入すること、第2にディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』を再読することだった。
 前者については、もちろん「北アイルランド独立のための活動家が獄中で受けた恥辱をひたすら映す」という『HUNGER』の特性が、「ナチス・ドイツの絶滅収容所を任された男を家長とするホームドラマをひたすら見せる」という『関心領域』の真逆を向いていた、その異義性を感受したための所行である。もしも、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺に関する映画に関しては昂った言辞を費やす人間が『HUNGER』に対しては「えっ、北アイルランド……うーん、その辺についてはよく知らないから、ちょっと検索してから観ようかな」と気乗りしない態度を見せるならば、それは狭窄された関心領域の為せる業としか言いようがあるまい。さらにもし昨年のカンヌ映画祭に関心のある者がいたならば、マックイーンの最新作『Occupied City』が『関心領域』に2日先んじて・それも同じカンヌで公開されたことを知らぬはずがあるまい(もちろん私は両作品の評を The Guardian 紙で読んでいたために知っていた)。「閉じ込められた空間における、暴力による殺傷被害を前提とした政治的抵抗」という20世紀的テーマを『HUNGER』の時点で展開していたマックイーンが、実はジョナサン・グレイザーと全く同時期にナチス・ドイツのテーマに取り組んでいた。この同時代性と異義性の両方を認識できずして一体何が批評だろうか? さらに言えば、レディオヘッドだのジャミロクワイだの90年代ノスタルジーに過適応した経歴を持ち(もちろん日本国にはそのような心性に飼い慣らされた買い手が簇生している)・外見的にも白人世界に「同化」したアシュケナジムとして見映えが良いグレイザーに比して、カリブ=アフリカ的出自を持ちなおかつアイルランド的姓を名乗っているマックイーンの作品が被っている冷遇は、『HUNGER』の頃から歴然であった。グレイザーの『関心領域』はユナイテッドシネマ系列で配給されているが、マックイーンの『Occupied City』はTBSドキュメンタリー映画祭にて(監督カップルによる質疑応答付きで)日本公開されたのみである。ここに露出している待遇の違いそのものが、狭窄した関心領域による(大衆的な)検閲の結果でなくて一体何だろうか? 現に、『Occupied City』関連の情報を提供する日本語のテキストにさえ、平然たる調子で “この映画は、4時間にわたって単調なナレーションによって語られる出来事の連続であり、テンポに変化がないため、過激な行為ではあるが、アクセスするのは非常に困難である。多くの観客は(私たちも含めて)傍観者のままであろう。” と書かれているのだ。はっきり言うが、このように同時代の異義を別様に共有している作家たちから片方のみを取り上げ/もう片方は無視して事足れりとする精神性を恥じない者どもには、罷り間違っても藝術作品の良心的な担い手などを自称しないでもらいたい。そのような無恥の輩どもが『関心領域』をダシにして「もしかしてワタシたちの無関心もナチスと同じなのかも🤔」と賢しらぶるなど言語道断だ。その類の自動生成的遁辞ですら結局のところ実際に露呈されている無知・無恥をしか意味していないのだから救いようがない。作り手が拵えたコンセプトからそれを受けた観客の反応にいたるまで、『関心領域』は Monomeantmovie として一貫しているのだ。

 という事実を確認するためだけに、私は金を払って観に行く。もちろん公平を期すなら、ミカ・レヴィの「2代目ペンデレツキ襲名」とでも言いたげな意気さえ感じる音楽には大いに期待している。というか平然と書くが、私は件のオープニング/クロージングテーマも(YouTube上にアップロードされた、本編のソフトから直接に音声のみを切り抜いたと思しい動画を元手として)既に何度か聴いている。ここでペンデレツキの名が召喚されたのも、リンチの『火はあるか?』における『広島の犠牲者に捧げる哀歌』使用と同様に意義ある脈絡であろう。むしろ『関心領域』は、その経歴からして「音楽の力は信じているが映像の力は信じていない者」ことジョナサン・グレイザーの本領が(企まぬかたちで)発揮された結果だと信じて疑わない。そもそも世間で絶賛されていた『Virtual Insanity』のセット造形よりもジェイ・ケイによる脱力したダンスパフォーマンスのほうが何百倍もクールかつタイムレスな魅力を備えていた(が、少なくとも日本国において、あのビデオに対しこの類の賛辞を寄せている輩を見たことがない。単に踊る習慣が無いためだろう)し、『Karma Police』に仕込まれていた一応の「筋書」などいま観直すとサムくて仕方ない。最初からグレイザーは映像に関して敗北主義で、90年代に際立っていたミュージシャンに寄生するかたちで食い繋いできただけの男である。この流れからディディ=ユベルマンの著作に接続できるのだが、敢えてここまでとする。


〔後略〕


 本稿の全文は、 Integral Verse Patreon channel有料サポーター特典として限定公開される。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?