ある凡人の数学者人生が始まるまで 3

数学者とは 2

ここでWikipediaの「プロフェッショナル」から引用してみると

一般に、プロフェッショナルには、おおまかに次の二つの意味がある。
・専門的な仕事に従事し、その能力が高く、その仕事の技術に優れ、確かな仕事をする人
・主たる収入を得るために、特定の分野に従事している人

とあり、

この用語は、この役割を担う人の「あるべき姿」を指してもいて、人々が専門的な仕事をする人ならば備えていて欲しいと願っているように、能力が高く、技術に優れ、確かな仕事をする人のことを指している。

ともある。

ここまでは、「主たる収入を得るために、特定の分野に従事している人」という部分、すなわち「収入を得ていること」を満たす場合のみを考察してきた。

人はお金がなければ生活できないし、プロにはプロに見合った収入が支払われるべきであるという思いもあるが、数学者としての質は稼いだ金額ではなく、その専門的能力の高さや業績で評価されるべきであろう。

高い研究遂行能力・専門的知識を持って数学研究を行っている者こそが(プロ)数学者と呼ばれるに相応しく、その条件さえ満たしていれば大学教員以外の職についていたり、あるいは無職であったとしてもよいという考え方もできる。

(実際は大学教員は教育や大学運営・その他雑務によって研究に専念できていないのが現状であり、大学教員であっても別に「数学の研究に従事しているから収入を得られている」というわけではないと言える。)

その意味では、裁判官の職についていたことからアマチュア数学者として紹介されることが多い「フェルマー」は、実際には数学上の新発見を数多くなしたのであり、プロ数学者でもある。それも第一級の。


ここまで述べていなかったが、数学者という呼称は実際には時間依存の概念でもある。「今は数学者ではないが昔は数学者だった」のように。

大学教員であっても研究をしなくなってしまった者はいるだろう。つまり、任期のないポストを持った大学教員であっても数学者ではないということはあり得る。

話を戻そう。収入や職種ではなく能力を重視した一つの判断基準としては、数学の論文を(時間を気にする場合は数年以内に)執筆しているかどうかというものが考えらえる。

しかし、これも線引きは難しい。いわゆるトンデモな論文を書いている人を数学者とは呼ばないだろう。


それだったら査読付き論文を出しているかを基準にするというのはどうか。

これは中々に良い基準だと思う。数学者としての自覚を問題にするのではなく、他人から見て人が数学者であるかどうかを判断する場合は絶対条件かもしれない。

ただ、論文のアクセプト・リジェクトというのはどうしても著者には制御できないものであり、優れた論文を書いていてもレフェリーや編集がハズレで何年もたらい回しのような状況にあってしまうケースが実際に存在する。

そうなったら、研究を続けているのに数年間はこの意味で数学者ではないという状況になり得る(7年ほどかかったという話を聞いたことがある)。

アクセプトが出る前にちゃんと優秀さが認められて任期無し助教になった人は何人かいた気がする(確証は持っていないが)。

それに初めての論文を執筆している段階は数学者ではないのかという疑問がある。

人によっては最初から大仕事をする人もいるわけで、例えば何年も研究を頑張った末に周りよりも遅く初めての論文を執筆するというケースだってあるだろう。私はそのような人が研究に取り組んでいた時代に「あの人は数学者ではなかった」とは思わない。もちろん、本当に真剣に研究に取り組んでいたかを客観的に証明することはできないが。

なお、査読付き論文であってもトンデモ論文は存在する。


他の判断基準として数学に関する博士号を取得した者をプロ数学者とよぶということも考えられる。

しかし、これも十分な基準ではない。(飛び級的に)博士号を取得していない大学教員も存在するが、むしろ大学院生等の学生を数学者に含めないことに問題を感じる。

例えば、修士一年生で教科書を読んでいる段階ではプロ数学者とは呼ばれないであろうが、修士論文や博士論文を執筆するために研究に従事している学生達の中には優れた研究をしている者も多く(時には査読付き論文を何本も携え)、やっていることは(学生以外の)プロ数学者と変わらない。

既に論文をたくさん書いている天才高校生数学者なんてのもいるかもしれない(まあいるんですけどね)。

将棋では奨励会三段の人達をプロ棋士とは呼ばないけれど、プロレベルの人達は多数いる。研究をしている学生はプロ数学者とは呼ばないけれど、奨励会員のような存在として「数学者の卵」、「数学者見習い」ぐらいであるという考え方はできる。

だとしても大学院生は数学者としての自覚を持っていた方がいいし、それ以外の人も大学院生は数学者としての仕事に従事しているのだと認識している状況になるのが望ましいと思う。


無駄に長くあれこれ書いてしまったが(しかも長い割に徹底されていない)、要するに「これが(プロ)数学者だ」とは決めがたく、多数の種類の数学者という概念が共存している。

普通はどれかの意味でもって曖昧に利用する呼称であるが、できるだけ厳密に表現しようと思えば各人が「私は〇〇の意味での数学者であり、△△の意味での数学者でもあるが、□□の意味での数学者ではない」などと表現する他ないと感じられる。


そして、私は大学院生を経て博士号を取得し、論文を数本執筆して研究誌に掲載され、学振PDとしてポスドクの身分にある。つまり、幾つかの意味では私はとうに(プロ)数学者になっていたし、任期無し大学教員であるかを基準とする意味では未だ数学者ではないことがわかる。


そうすると、冒頭の「最近、ようやく自分が『数学者』であると実感するに至った。」はそれだけでは意味がわからない。


よく見ると数学者に『』が付いている。実は、『数学者』は「数ある数学者の中でもある特定の定義における数学者」を指していたのである。その「ある特定の定義における数学者」とは、私が

「ガウスの意味での数学者」

と呼んでいるものである。

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