ある凡人の数学者人生が始まるまで 6

中学生編 1

地元の公立中学であるS中学校に進学した。実は父が通っていた中学校と同じである。

バスケ部に入った。バスケが中学校生活の中心であった。ポジションはセンターで、自分たちの代になってからは背番号は5番であった。市内の別の中学の5番、S君をライバル視していた。

池田市は鳥取県の青谷町(現在は鳥取市)と姉妹都市の関係にあり、毎年「池田選抜 vs 青谷中学」が開催された。私は無事選抜され、5番になった。(ライバルS君が4番だった。後、本当は私は6番の予定であったがユニフォームのサイズの問題で5番を譲ってもらった。)ただ、青谷中学にはボロ負けした。

そんなバスケ中心の生活ではあったが、小学校では全く宿題をしなかったくせに、中学校の定期試験の対策は毎度頑張っていた。なぜか「テストだけは絶対に頑張らなければならない」という謎の固定観念があったのだ。提出物も内申点につながるのでやった。

毎度テスト勉強は辛かったが、一・二年生の間は例外を除き80点以上を取ることができていた。

得意科目は英語と社会(特に歴史)であった。英語に関しては小学六年生の頃から近所の個人塾に通っていたのが大きかった。


例外というのは二年生になってからの数学だ。


記憶に残っているのは連立方程式。一つ解くのに二分ほどかかり、難しいなあと感じた。そして、テストで出た文章題は全く解けなかった。ビデオを三倍でダビングして云々という問題が出たような気がする。そうして、数学だけ50点台という低さを叩き出していた(もちろん低すぎるということはないだろうが、他の科目と比べて相対的に悪かった)。


その中学二年生の頃、バスケ以外にドハマリしていたものが三つある。

「いちご100%」と「ショパン」と「CGIゲーム」だ。

いちご100%については割愛する。西野つかさ派だ。

ショパンについては後述したい。


さて、当時、小学一年生のときからの親友であるM(宿題忘れ三人組のうちの一人である)と幾つかのWebサイトを閲覧して情報を共有し合うのが日課であった。

驚きを隠せないが、その中の一つが未だに存在する。

キャラバンサークル

上記サイトは最初期にハマったものである。私とMが最もハマっていたサイトは「DQと共に」というサイトだ。

そして、ブラウザ上で動くCGIゲームをたくさんやり込んだ。「MONSTERS」と「The Wars of Roses」というゲームで特に遊んだ。

Wikipediaの「CGIゲーム」の「配布型CGIゲームの代表作」の一覧の中では「箱庭諸島」、「罪と罰++二律背反」、「SOLD OUT」が大変に懐かしい。

そんな生活をしていた私には一つの将来の夢ができていた。


ゲームプログラマーになりたい。


ゲームそのものよりも、どうやってこのようなゲームを作るのだろうということに興味を持った。

そして、病的折衷主義のがらくた出力機ことプログラミング言語 Perl の教科書を買って読んだりしていた。

実際のところは集中してプログラミングを勉強するということはできておらず(何を隠そう、このままではいけないと思っているが、私は未だにプログラミングができない)、図書館にあった職業別の進路本コーナーに行ったりWeb検索をしたりして、どうやったらゲームプログラマーになれるのかということばかり調べていた。

すると、まずは専門学校または大学へ行ってプログラミングのスキルを身につける等が書いてあったと思うが(当時はコンピューター専門学校にすごく憧れた)、大体の本やWebサイトには「ベクトル等の数学が必要。数学ができた方がいい」ということが書いてあった。

これに私はたいそう困った。だって、数学だけがテストで点数の取れない苦手科目なんだもん。


このままではゲームプログラマーにはなれない!


焦った私は噂に聞いていた自転車で通えるところにある数学専門塾「大森学園浜田教室」の門を叩くことにした。


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