ある凡人の数学者人生が始まるまで 15

高校生編 6

これから、大学受験時代について振り返っていこう。

志望校は「京都大学理学部」一択であった。記憶によれば高校一年生のはじめに親に「東京大学へ行きたい」と言ってみた。すると、「うちの家計では一人暮らしはさせられないから家から通えるところにしなさい」と言われた。京都大学は片道一時間半から二時間程度かかるが通うことが可能ということで、それ以来志望校は京都大学となった。

実は実家から大阪大学豊中キャンパス(理学部のあるキャンパス)がものすごく近い位置にある。ただ、当時の自分は東大か京大を出なければ数学者にはなれないとか京大と阪大には超えられない学力の差があるなどと過激な勘違いをしていた。

三年生になっていよいよ本格的に京都大学を目指すとなってから父と頻繁に衝突した。難関大学受験等に縁のなかった父には

①京都大学は神様のように頭のいい人しか行けない

②もし京都大学を狙えるぐらいの実力があるとしても、受かるか落ちるかの危険を冒すより、その実力で確実に合格できるように一ランク下の大阪大学を目指すべきだ

というような考えがあったと推察している(本当にそう考えていたかは保証しないし、私は大阪大学の方がランクが下などとは今はもちろん考えていないし、以下の対策を見るとわかると思うが阪大なら落ちていたと思われる)。

しかし、受験期間中に自分の考えを曲げるようなことはなく、京都大学志望を貫いた。


私の考えた受験対策はこうだ:

当時の京大理学部は二次試験で650点満点中「3XX点」取れば問題なく合格する(XXの部分がどれぐらいかは覚えていない)。全四科目中、数学・理科で400点の配点なので、他の科目が零点でもここで通るようにしておけばよい。実際はそう上手くはいかないだろうから、予備として英語(150点満点)は対策しておく。国語(100点満点)は一切対策しない。

より具体的には、

数学:雑誌「大学への数学」を楽しんでおけばよい。

理科:有名な参考書である「難問題の系統とその解き方 物理」と「化学の新研究」を自分で読み込む。

英語:苦手なので、これだけ塾に通う。

国語:90分で現代文二つ、古文一つなので単純計算ではそれぞれ30分ずつで解答することになるだろう。しかし、古文はかなり対策しないと解けるようにはならないため、古文を完全に諦めて現代文を45分ずつかけてその場で解くようにする。(つまり、何らの勉強もしない。)

という計画で一年間勉強した。


英語の対策のために、Z会に戻った。受講したのはM先生による京大英語の講座とO先生による英作文の講座だ。O先生の講座が数学用語をたくさん覚えるきっかけとなったことについてはここに詳しい。

一年生のときに数学の講座を受けに通っていたときとは違い、同じ高校の多くの同級生が受験対策としてZ会に通い始めていたので、孤独感はなく楽しめた。特にオーケストラ部の友達は多く通っていた。

また、一年生のときに特進クラスを勧めてくださったT先生や青空学園数学科を運営されているK先生と廊下などでお会いしたときは、講座を受講していないにも関わらず、様々な数学の話をした記憶がある。


オーケストラ部を引退した後は、よく放課後に学校の教室に残って勉強するようになった。同じように放課後に教室で勉強するクラスメイトは割と固定されていて、「放課後メンバー」と呼んでいた。とにかくその居心地が良かったことを覚えている。


受験勉強以外の余談を少し。高校ではバスケ部に入らなかったわけだが、あるとき以降あらゆる空き時間に校庭のバスケコートで自称「ストリートバスケットボール同好会」の活動をしていた。私と同じく「中学ではバスケ部だったが高校ではバスケ部ではない者」やそれ以外のバスケ好きが集まって毎日バスケを楽しんでいたのである。私はよく「海賊Tシャツ」を着て活動していた。漢字で「海賊」と書いてあるTシャツで、姉が高校生のときの文化祭で作ったクラスTシャツを譲り受けたものだ。その影響で、ストリートバスケットボール同好会の仲間からは「海賊」と呼ばれていた。自分の人生の中では一番面白いあだ名かもしれない。あだ名と言えば小学生のときは「なすび」と呼ばれていたなあ。


受験の話に戻ろう。高校生のときは受験指南書を読むことが趣味であったと言っても過言ではない。本屋さんに行くとたくさん並んでいる和田秀樹氏の本を手にとったものだ。例えば

石井大地著、「世界一わかりやすい東大受験完全攻略法」、双葉社、2005年

を読んだが、こういった本を読んでいるうちに「最初の方に受ける模試ではE判定が出るがそれは想定内であり、最終的に合格できるように計画された勉強をする」というような謎の痛い妄想をするようになっていた。

その妄想に従って、駿台や河合塾の模試を受けるときに「E判定が出るけど計画通りだから」と親につげたのであるが、実際にはあっさりA判定やB判定が出てしまった。「こ、こんなはずでは」と思ったが、そこで怠けてしまうようなことさえなければ良い判定を出すに越したことはない。


出だしは順調に思えた受験勉強であるが、12月になって大きな誤算に気づいた。

センター試験に関する誤算だ。

当時の京大理学部はセンター試験を足切りとして利用するものの、最終的な合否判定には得点を加算しないというものだった。足切りは5教科7科目平均70点。それは余裕でクリアできると信じていたので何らの対策も取っていなかった。

ところが、12月中頃に受けた駿台のセンター試験模試の結果が5割台だったのだ!ここにきてまさかの足切り説が浮上したのだ。

焦った私は慌ててセンター試験の勉強を始めたものの、「社会」がどうしようもないことに気づいた。それまで高校では世界史を選択していたが、一度たりとも勉強したことがなかった(テストはどうやって乗り切っていたのだろう?多分赤点+補講かなんかの特別措置?)ので、センター試験の模試などでは殆どランダムに選択肢を選び、30点以上を取ることができなかった。

そこで、親にお願いしてZ会の冬期講習(世界史)を受講させてもらった。これは本当に無意味で、冬期講習では既に勉強して得ている知識をもとに問題を解いてその解説がなされる形式だったので、知識を習得していない私はぼーっとする他なかったのである。

高いお金を出してもらったのにこのままでは本当にまずい、どうしようどうしようと思っているうちにセンター試験の一週間前となった。

そのとき市販されていたセンター試験問題のパックを購入して取り組んだが、やはり世界史は30点に届かなかった。「もう冬期講習でお金を出してもらったとか気にしている場合ではない!このままでは本当に足切りになってしまう!」と考え、急遽「現代社会」に受験科目を乗り換えることにした。

本屋で現代社会の参考書とセンター試験型問題集を一冊ずつ購入し、三日で参考書を読み切った後に三日間問題集を繰り返し解いて、センター試験当日をむかえることなった。


センター試験当日は試験直前まで会場でポケモンをしていた友達が「2ちゃんねる」で話題になっていたのを覚えている。二日間の試験を終えて自宅で自己採点をした。最初に国語を採点したのだが、91点であった(1,2点の記憶違いはあるかもしれない)。91点である!200点満点で!!

本当に背筋が凍った。7割は140点なので、この時点で約50点マイナスになっているのだ。「やばい!」と母に報告したところ、「足切りになってもお父さんには京大受けたことにしてあげるから来年頑張りな」というようなことを言われた。これに妙に安心し、気を取り直して採点の続きをしたところ、現代社会は70点以上、理科数学で合計してほぼ400点を取れ、結果的に足切りにはならずに済んだ。そうなるともうセンター試験のことは一切忘れてよい。


センター試験直後に高校の校庭で「クラスワールドカップ」なるクラス対抗のサッカーの大会がなぜか行われた。これが楽しかったのだが、一気に受験勉強に怠けることとなる。学校も塾も授業はもうなかった。

そして二次試験の約一週間前になって豊中市のロマンティック街道にあるガストで友人二人と一日中受験勉強をしようという謎のイベントが行われた。そのうち一人は親友のIで、彼は同志社大学に合格してもう受験勉強からは離れており、確か漢検の勉強をしていた。もう一人はIの中学時代の友達で京大志望のS君。途中から何故か私が数学について語り始めてしまい、受験勉強そっちのけになってしまった。この日を境に二次試験当日まで完全に勉強のやる気を失い、早く大学へ行って数学を勉強したいなあなどと思いながら残り少ない日々を過ごした。


二次試験当日。朝5時ごろには家を出たのだが(早すぎる)、家から数十メートル進んだところで「今日は頑張るぞ!」と自転車に乗りながら右手拳を天に突き上げた。と同時に私はバランスを崩し思いっきり道路に転んで、痛さのあまり声をあげてのたうちまわった。

だが、早朝ということもあって周りには誰もいない。少し痛みがおさまったところで自宅に電話をしたら父が走って駆けつけてくれた。一度家に帰ったかは思い出せないが、一応問題なさそうだということになって、再び私は大学へ向かうことにした。電車の中で京都の別の大学を受験する同級生と一緒になり、顔に大きな傷をつけているのが恥ずかしかった。


試験会場は4共だった(わかる人はわかる)。転けるというアクシデントがあったものの家を出るのが早すぎ、着いてから試験開始までの待ち時間をかなり長く感じた。

当時(今も)私は頻尿であり、試験時間中にトイレに行きたくなるという問題があったのだが、実際に英語(二日目かな?)の試験中に二時間の試験時間のうち一時間がたったときにトイレに行ったことを覚えている(トイレに行くと解答時間が減る一方で我慢すると思考力が落ちるのでどうすべきかを本当に悩んだ)。国語では古典の対策をしていなかったものの、書きようはあったので適当に解答を埋めた。

得意科目である数学の試験は一日目であったが、余裕で全完だぜ! とは残念ながらならなかった。私が受けたのは「2008年理系乙」であり、第6問が三角関数表が付録でつくという異色の問題で面食らった。が、難しいということはなく解くことができた。一方で、第3問と第4問が解けなかった。


要である数学で二問も解けない問題があったことで私は落ち込んだ。その落ち込みようは相当なもので、帰った私を見た両親は不合格を悟ったことだろう。自分自身、合格発表まで落ちたと思い続けていた。


解けなかった問題のうち、第3問は京大らしい美しい問題である。それは次の定理を証明せよというものだ:


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実はこの定理は比較的少ない文量で証明を記述することができるのであるが、私はそれを思いつかなかった。それでも部分点を狙って色々書くことにした。4直線を全て方程式で記述し、所望の平行四辺形が存在することをある連立方程式の解の存在に帰着させた。そして、3直線が同一平面内にないということを利用して連立方程式の解の存在性が言えるというようなことを(わかっていなかったが)書いた。

結果的に私の数学の得点は想像していたよりは高く、また受験者の中では相対的に高いものであった。なので実際は合格するには十分だったのであるが、思ったよりも点数が高かった理由の一つとして上述の解答に対する部分点がある程度ついた可能性はあると思う。

追記:ちなみに模範解答がどんなものであったかを忘れていたので、今回この問題に再挑戦してみたらちゃんと解けた。わかってしまえばものすごく簡単であるが、大学入試問題としてはやはり良問だと思う。


京大理学部は後期試験がなく、他大学の後期試験にも出願していなかったので、2月27日以降は合格発表まで暇であった。後期試験の勉強のために高校が開放されていたので、登校して受験勉強ではなく留数定理の勉強をした。その勉強がとても楽しかったというか、コーシーの積分定理の美しさや留数定理の強力さにとても感動したのを覚えている。


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そして合格発表は京大まで見に行くことにした。どうせ落ちるだろうと思っていたので早めに最前列に並ぶようなことはせず見えるようになるまで順番待ちをしていたが、待っている間に「落ちましたが来年頑張ります」みたいな同級生からのメールが幾つかきた。自分が最前列に到達して番号を確認したら自分の番号があった。


まず母に電話したが、そのとき受験票を持っていくことを忘れていて本当に番号が正しいか不安になってきたと言ったところ「〜番(数字を一つ入れ替えたもの)も確認しときなさい」と言われ、もう一度一覧を見に行った。すると、その番号はなかったのでとてつもなく不安になってしまった。その不安は帰るまで払拭されなかったが、とりあえずは受かったものとして色々な人に報告した。あれだけ京大受験に反対していた父は泣いて喜んでいた。


高校の数学教師であるK先生には電話で「これからはリーマン予想でも何でも自由に挑戦してください」と言っていただいた(すみません、まだ挑戦してないです)。その後、高校で仲の良かった四人組で沖縄旅行に行ったりし、これからは好きなだけ数学を勉強するんだ!と期待に胸をふくらませて四月が来るのを待った。

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