ある凡人の数学者人生が始まるまで 13

高校生編 4 〜音楽フェスティバル〜

二年生になって、一年生のときに成果を出せなかった「音フェス」と「数オリ」で今年こそは成果を出すんだと並々ならぬ情熱を持って音楽と数学に邁進した。大学受験へ向けた勉強は三年生になってからやればいい。二年生の間は音楽と数学以外は何もしなくていいと決めた。


オーケストラ部の部室は音楽室であり(より規模の大きい吹奏楽部はホール、あるいは外で練習していた)、三つの小部屋が付随している。

その中で最も大きい部屋は「大きい小部屋」というパラドキシカルな言葉で呼ばれており、グランドピアノが置かれていた(メインの教室にも当然グランドピアノはある)。

そこで部員は気ままにピアノを弾いていたのであるが、私は中学時代にピアノの発表会で演奏したショパンの「バラード第一番」をよく弾いていた。


そんな日々を過ごしているうちに、私は「音フェスのオーディションにバラード第一番で挑戦してピアノ独奏したい」と思うようになった。

これはあまりに無謀な思いつきである。というのも、例年音フェスのオーディションに受かってピアノ独奏をする人はコンクールでの入賞経験が豊富で音大へ進学する(or できる)ような人ばかりだったからである(くどいが北野高校は公立高校である。何故、毎年こんなにも音楽ができる人が集まるのか謎であった)。

しかし、私は本気だった。一年生のときに無念にも早退することになった音フェスで今年こそは活躍したいと思った。絶対にバラード第一番を全校生徒の前で演奏するんだ、と。


そう決意してからというもの、毎日ピアノを練習しまくった。中学生までの間、ピアノの練習は基本的に苦痛であったあの私がである。私の実家はマンションであり、大変ありがたいことに小さい頃からアップライトピアノを買って貰っていたものの、夜の八時までしかピアノの練習ができなかった。

また、ピアノの練習というのは他人からすれば騒音でもあるため、家族がいる間は中々練習できないということもあった(ただ、一緒に住んでいる祖父母には常に練習を聴かせていたことになる。申し訳なく思うが、大学生のときに今は亡き祖父がピアノを聴かせてくれと言ってくれた時はとても嬉しかった)。

そこで、基本は学校の大きい小部屋で朝と夕方にグランドピアノで練習した。ただし、音フェスが近づくにつれ、他のオーディションを受ける人達や合唱のピアノ伴奏の人達も練習をしに来たため、ピアノの争奪戦となった。

同級生でヴァイオリンのNの家は音楽一家であり、家に防音機能があった。そこで、Nの家に行って夜遅くまでピアノを練習したりヴァイオリニストのお母様、フルート奏者のお父様から手ほどきを受けた。


一つ下のオーケストラ部の後輩(男子)にコンクールで入賞するピアノの実力者Sがいた。彼は最初はバスケ部だったそうだが、途中からオーケストラ部に入ってきてクラリネットをやり始めた(大学ではチェロを弾き、高校時代を含め指揮者として活躍した)。合宿のときにシンの「フェルマーの最終定理」を読んで数学に興味があるということを知り、すぐに仲良くなった。

後輩Sの家にはグランドピアノがあった。それで、後輩Sの家にもよく行ってピアノを弾かせて貰った。そして、彼が師事しているピアノの先生にもレッスンを受けさせて頂けた(Nのご両親や後輩Sのピアノの先生には当然謝礼をお支払いしたが、それを出してくれた私の両親にも感謝している)。

この頃は完全にバラード第一番に全てを懸けていた。次第に学校をサボるようになった。学校をサボって両親が仕事に出ている間に家でピアノを弾いていたのだ。


上記エピソードの一部はオーディションと本番の間の出来事だったかもしれない。こう書くとネタバレになってしまうが、これはノンフィクションだから仕方ない。


迎えたオーディションの当日、それまでにやってきた練習と懸けてきた思いの全てを十分間の演奏にぶつけた。やりきった。

その年の審査員にはNの父が来ていた。講評の時、「思いの強さも大事であるが、音楽は実力が大事である」というようなことをおっしゃったと記憶している。これは私のことを指しているのではないか、これは絶対に落ちたなと思った。


合格発表は次の日の朝に音楽室の前で掲示されることになっていた。絶対に落ちたと思い込んだ私はいつもよりも遅めに学校へ向かい、音楽室にはよらずに教室へ向かうことにした。

すると、教室へ続く螺旋階段を上った先にオーケストラ部の同級生、後輩達、吹奏楽部の親友Iが私を待ち構えていた。


「先輩、選ばれてましたよ!」


大学生になってから友達Wから聞いた話によれば、ある後輩は「あいつはコネだから」みたいな感じで怒っていたらしい。審査員を務めるNの父にお金を支払ってレッスンしてもらった(これは確実にオーディション前)のだから、確かにコネで選ばれたようなものだ。ただ、当時私はなんとコネという概念を知らなかったし、ましてや「選んでください」などとは一切お願いしていない(そもそもNの父が審査員をやるということ自体知らなかったと思う)。ただ純粋に少しでもバラード第一番を上達したかったからの行動であったことはここに誓う。


そして、二回目、いや実質的に初めての音フェスで憧れのピアノ独奏をした。ピアニストでも何でもない私が、大ホールで数百人の前でバラード第一番の演奏をしたのだ。


二つ異例の扱いがあった。一つ目はカットがなかったこと。音フェスの進行は時間にシビアであり、ピアノ独奏で10分程度の大曲を選んだ人はカットしてもっと短くするのが通常であった。しかし、私はカットなしに演奏させて貰えた。二つ目は演奏前に音楽教諭のS先生の解説が入ったこと。

「彼より技術的に上手い人はいくらでもいる。しかし、この情報過多の時代において一つの曲に思いを懸けるような生徒がいるんだということに審査員は心動かされた」

というようなことをおっしゃってくださった。



演奏を終えて舞台袖に行くと、客席から後輩Sと親友Iが駆けつけてくれていた。嬉しくて涙が出てきた。


青春だった。それまでの人生で一番輝いていた。


なお、音フェスではピアノ独奏の他にクラスの合唱、オーケストラ部による演奏、そしてデュエットに出演した。

デュエットは音楽の授業における歌の試験を基に先生に選ばれた数人が幾つかのペアを組んで音フェスで歌うことができるというものだ。

私はウエストサイド物語の「トゥナイト」を歌った。


一年生の時にタッグを組んだヴァイオリンのHはクライスラーの「プレリュードとアレグロ」を独奏し、



後輩Sはリストのピアノ曲「ラ・カンパネラ」を独奏した。私はプレリュードとアレグロの「プレリュード」が大好きである。上記動画の解説

ミシミシから始まるこの前奏曲は、音の数はとても少なくリズム一定の中で身震いするほど魅力的で一瞬で異世界に連れ込むもはや悪魔的な旋律です。

は素晴らしい表現だと思う。

合唱ではSS(スーパーサイエンス)クラスが歌った木下牧子作曲「夢みたものは」に一聴惚れした。



これは24歳で夭折した詩人 立原道造の詩を基にしたものである。以下はウェブサイト「ベストエッセイセレクション 夢みたものは~立原道造のこと」から引用。

1937年6月5日の日曜日、道造はアサイを誘って軽井沢へ日帰りの小旅行へ出かけた。 信濃追分駅近くの草むらで、道造はアサイにプロポーズをしたという。 1938年、道造はアサイと過ごす幸せな時間を一篇の詩にしたためた。 愛する喜びに世界は光り輝き、目に映るすべてが幸せに満ち溢れていた。 「夢みたものは」を書き上げた道造は、その年の12月に喀血し容体が悪化。 この時すでに手遅れの状態にあった。 アサイの献身的な看病も実らず、3か月後の1939年3月29日、道造は24歳の若さでこの世を去った。


高校卒業後、私の人生において音楽は聴くだけの対象となり、数学がメインとなっていく。このバラード第一番に懸けた熱い自分を超えることはその後何年もの間できなかった。

しかし、私にとっての「数学人生におけるバラード第一番」とでも言える存在に高校生のうちに出会うことになることを当時の私はまだ知らない。

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