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曾祖母について

小学生の夏休み、よく母の実家に預けられていた。

祖母の家には昭和に流行ったレトロな漫画たちや、将棋盤、オセロ盤、テレビや色ペンなど色々あったが毎日やっていると飽きてしまって、ぐでぐでと畳の上で暑さに喘いでいたな。

つまらなくなると、私は曾祖母の部屋に行くことが多かった。曾祖母の和室の縁側は作業スペースになっており、編み機やミシン、大量の布や、絵はがきを書くための水彩絵の具などが置かれていた。私が人の趣味に触れたのは、曾祖母のそれが初めてだった。
曾祖母は夏になると孫達に手作りのワンピースを作ってくれていた。毎年採寸の度に、大きくなったなぁ〜と顔をしわくちゃにして、誇らしげな、嬉しそうな顔を見せてくれていた。その顔を見るのが好きだった。卒寿を迎えても活発で、散歩や買い物、文字を書き、カラオケに行くところが好きだった。いつまでもこのまま元気だろうなと、呑気に思っていた。



だが今、私の曾祖母は施設にいる。
2年前に認知症が一気に進み、家での介護に限界がきてしまい、入所に至った。

入所施設はこちらから予約して面会時間を設けるシステムで、その時期丁度コロナ禍であったために、面会そのものが禁止されていた。
しかし、面会が再開してからも、私は仕事の忙しさにかまけて会いに行けていなかった。というか、私を忘れてしまったかもしれない曾祖母に会うのが怖かった。大丈夫、いつか会える、そう思って会う日を引き延ばしていた。


そうして、引き延ばして1年程経った3ヶ月前、曾祖母が入所してからやっと初めて会いに行った。たとえ私の事が分からなくても、曾祖母は97になっていたし、もう悠長なことは言ってられない時期にあると感じていた。いつまでもそこに居てくれていると思ったら大間違いなのだ。そう思って会いに行った。

扉を開けると、車椅子にのった曾祖母が居た。祖父の事はなんとなく分かるようで話しかけられたら応じていた。私はゆっくり笑顔で、大きな声で話しかけた。
「おばあちゃん、きたよ」

「?あぁ〜〜」
そう言って曾祖母は困ったように笑っていた。やっぱり、私のことは忘れていた。



別に分かっていたし、大丈夫だけど、少し寂しかった。それでも忘れられたならもう一度、なんだか人懐っこい犬みたいな女の子としてまた仲良くなればいいじゃないかと自分を励まし、強引に切り替え、涙ぐんでいるのを悟られないように手を繋ぎながら笑顔で話しかけ続けた。

「さいきん、さむいね」「おばあちゃん、薄着じゃなあ」 「饅頭たべる?」

など とりとめもなく言葉をかけている間、以前よりも細くなった指や、伸びすぎている爪や、皮膚の薄い冷たい手の甲をずっと摩っていた。「あったかいねえ」と曾祖母は変わらない、嬉しそうなしわしわの顔で笑ってくれていた。

面会はたったの15分で、あっという間に終わりの時間になった。

帰りの車の中で、私は今まで何をしていたんだろうと、後悔の念が押し寄せてならなかった。
曾祖母は元気だった。それだけで十分なのだけれど、私は悲しさと虚しさを感じていた。もしかしなくても、これからも、曾祖母は自分の人生のパーツを少しずつ忘れていくかもしれないんだ。そう思うとやりきれなかった。
でも、しわしわの笑顔だけは変わらない。それに、曾祖母が、私の手から温もりを感じたあの時間はまだ新しいものなんだ。そう思うと、すこし大丈夫になって、これから私がしなければならない事が分かった。


私は曾祖母に絵を贈る。
あの綺麗で質素な施設の部屋が、活発で心の豊かな曾祖母の部屋となるように、季節の花が描かれた絵を、季節ごとに贈ることにした。
曾祖母は絵葉書が好きだったから、きっと喜んでくれる。大丈夫。もうここまでくると、自己満足の域になるけれど、曾祖母の残りの時間が、私に会った時は温かく楽しいものになりますように。そう思う。いつ会う時も、今日が最後かもしれないと思って会う。後悔しないために、私は曾祖母に絵を贈る。
あの温かい15分が、いつまでも続いてほしい。


大好きだよ。などのあからさまで簡単な言葉も、結局のところ相手を直接抱きしめて言わなければ本当の意味で伝わることはない。

人のもつ時間そのものが命であり、有限なものだから、会える時間に感謝する。

そう思ってどんな人にも大切に会いたい。気づかせてくれてありがとうね、ひいおばあちゃん。




最後まで読んでくれてありがとう。久しぶりに曾祖母と会ってから、気持ちが溢れてしまったので文字に残したかったんです。上手くもない文の塊でも、日記のようにあとの私に気づきを与えてくれますように。




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